第三章 教団 ep.56
翌朝。
目を覚ましてからずっと、頭の片隅にあの印があった。
机の上に広げた母さんの記録、その端に残されていた、小さな紙片。
円と線。
歪んだ星のようにも見えるけれど、私が知っている燈骸教団の印とは違う。
母さんは、あれを何のために書き残したのだろう。
何かの場所を示すものなのか。
誰かを示すものなのか。
それとも、母さん自身にしか分からない意味があったのか。
昨日の夜から何度考えても、答えは出なかった。
だから私は、まず記録を調べることにした。
母さんの記録に残っているものを追うだけではなく、検死棟の記録室に保管されている公開記録なら、何か手がかりがあるかもしれない。
朝の検死棟は、まだ人の少ない時間だった。
記録を扱う建物の中は静かで、紙をめくる音と、遠くで誰かが机を動かす音だけが聞こえていた。
私は閲覧を許された古い記録を順番に確認していく。
水辺で起きた事件。
身元の分からない死者。
河川や水門周辺で発見された遺体。
過去の検死記録。
土地に伝わる風習。
そうした言葉を拾いながら、あの印に似たものがないか探していく。
けれど、なかなか見つからなかった。
そもそも、印そのものについて書かれた記録がほとんどない。
古い資料の中には、何かを示しているらしい図形が描かれているものもあったけれど、形が違う。
似ているように見えても、決定的なところが違っている。
何度目かの資料を閉じたところで、私は小さく息を吐いた。
「……ないな」
思った以上に、何もない。
母さんがあれだけ気にしていたものなら、どこかに名前くらい残っていると思っていた。
けれど、今のところ分かったのは、
“記録にない”。
ただ、それだけだった。
私はもう一度、昨日の紙片を思い出す。
母さんは、どうしてあんな印を残したのだろう。
そして、どうして誰にも分からないような場所に、それを書いたのだろう。
考えているうちに、窓から差し込む光が少し高くなっていることに気がついた。
時間を使いすぎた。
私は資料を元の場所へ戻し、立ち上がった。
調べることは、まだたくさんある。
けれど_____。
死者は、私が母のことを考え終わるまで待っていてはくれない。
検死役の仕事は、いつも通りそこにある。
◇
検死室へ向かうと、父さんが一体の遺体を前にして立っていた。
「遅かったな」
「少し資料を見てた」
「母さんのことか」
手を止めた。
父さんは、こちらを見なかった。
それ以上は何も言わない。
私も、何も答えなかった。
父さんはしばらく黙ってから、遺体の傍に置かれていた記録を手に取った。
「今日の検死だ」
「……分かった」
私は白衣を整え、手袋をはめる。
母さんのことが頭から離れなくても、目の前の遺体を前にすれば、やることは変わらない。
遺体の状態を確認する。
衣服の乱れを見る。
外傷の有無を確かめる。
皮膚の色を確認し、身体に残された痕跡を一つずつ拾っていく。
冷えた空気の中で、紙に記録する音だけが続いた。
名前。
年齢。
発見された場所。
身体に残された傷。
死に至るまでに起きたこと。
昨日までと同じように、私は一つずつ書いていく。
母さんの印が何なのかは、まだ分からない。
燈骸教団と関係があるのかも分からない。
母さんが何を追っていたのかも。
けれど、目の前の死者には、私が調べ終わるのを待つ理由なんてない。
この人の死は、この人が死んだその瞬間から、記録されなければならない。
「……ここ」
父さんの声に顔を上げる。
「左腕」
言われて見ると、衣服に隠れる位置に小さな擦過傷があった。
私は身体の向きを変え、傷を確認する。
「浅いね」
「そうだな。だが、記録しておけ」
「分かった」
私は筆を取った。
母さんのことを考えるのは、そのあとでいい。
今は、この人のことを残す。
それが、私の仕事だから。
◇
検死を終えた頃には、外はすっかり夕方になっていた。
私は記録を提出したあと、朝に調べていた資料の続きを確認するため、もう一度記録室へ戻った。
母さんの印。
水。
死者。
私は頭の中で、それらを一つずつ並べていく。
何かが繋がっている気がする。
けれど、その繋がりはまだ見えない。
私は古い資料を一冊ずつ開いていった。
ほとんどは、今までと同じだった。
水辺で発見された遺体。
事故として処理された死亡。
身元不明の死者。
何年も前の記録。
何度も同じ言葉が並んでいる。
私は半ば諦めながら、古い記録の束をめくった。
紙は黄ばんでいて、端が少し崩れている。
何か重要なことが書かれているようには見えない。
それでも、一枚ずつ確認していく。
そして_____。
指が止まった。
小さな記述だった。
本文の中に紛れるように、たった一行だけ。
私は顔を近づける。
そこには、こう書かれていた。
『水辺に残された印』
「……印?」
思わず呟いた。
胸の奥が、わずかに跳ねる。
私はその一行を、もう一度読み直した。
水辺。
印。
母さんの記録に残されていた、あの印。
まだ何も分からない。
けれど初めて_____。
母さんの残した印と、私が調べているものが、同じ場所に書かれている記録を見つけた。
私はそのページを閉じなかった。
暗くなり始めた窓の外を眺めながら、もう一度、その一行を読む。
『水辺に残された印』
ただの記述かもしれない。
偶然かもしれない。
それでも。
私は、今度こそその先を調べてみようと思った。




