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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第二章 父と母 ep.55




母さんの記録を開いたまま、私は机の前に座っていた。

見つけた紙片は、すでに記録の中へ戻されている。

けれど、その存在だけが、どうしても頭から離れなかった。

古びて黄ばんだ紙肌には、細かな皺が走っている。

端は不自然に破れていた。

誰かが意図的に破ったのか。

母さん自身が切り取ったのか。

それとも、長い年月の中で失われたのか。

私には分からない。

ただ、その紙片が母の記録の一部であることだけは確かだった。




私は、開かれたページへ視線を落とした。

最初に目に入ったのは、母の文字だった。

幼い頃、買い物の覚え書きや料理の作り方を書いていた紙に残されていた、見慣れた文字。

少し細く、独特の癖がある。

それでも、不思議なほど読みやすい。

何年も見ていなかったはずなのに、すぐに母のものだと分かった。

胸の奥が、わずかに締まる。

記録には、場所の名前と日付、断片的な文章が残されていた。

その中で、何度も繰り返されている名前がある。

東の水門。

母は、そこへ何度も足を運んでいた。

僚明も、そこへ行っていた。

二人が同じ場所に辿り着いていた理由は、まだ分からない。

けれど、それが偶然ではないことだけは、もう疑えなかった。




私は頁をめくった。

紙の擦れる音が、静かな部屋に響く。

その時、紙片の下に隠れていた一文が、改めて目に入った。

一瞬、意味を理解できなかった。

見間違いかと思い、私は息を殺して読み直す。

そこに書かれていたのは_____。




『死体は嘘をつかない。

嘘をつくのは、生きている人間だ。』




「……」




息が止まった。




「……母さん」




声にした途端、胸の奥が痛んだ。

母は、何を見ていたのだろう。

何を知っていたのだろう。

そして、何を恐れていたのだろう。




私は記録の端を握りしめた。

今までなら、父さんに尋ねていたかもしれない。

これは何なのか。

母は何を調べていたのか。

なぜ東の水門へ通っていたのか。

けれど、今は聞きたくなかった。

いや。

聞くのが怖かった。

父さんが何かを知っていることは、もう分かっている。

母の死について。

母が追っていたものについて。

そして、あの夜に交わされていた会話について。

父は、何かを隠している。

それが何なのかは、まだ分からない。

ただ、この記録を読み進めたことで、一つだけ確かなことがあった。

母は、ただ死体を調べていたのではない。

何かを追っていた。

そして、その何かは、母の死と無関係ではない。




私は文章を見つめたまま、ゆっくりと視線を下へ移した。

そこで、初めて気づいた。

文章のすぐ下。

余白に、何かが描かれている。

文字ではない。

記号。

小さな印だった。




「……何、これ」




私は記録を机の上に置いた。

印を傷つけないよう、指先で紙の端だけを押さえる。

円にも見える。

けれど、完全な円ではない。

細い線が途中で途切れ、別の線と交わっている。

歪んだ線は何かを囲っているようにも、何かを縛っているようにも見えた。

その形を見つめていると、理由の分からない寒気が背中を這い上がる。

燈骸教団の印ではない。

あの印なら知っている。

円と線。

歪んだ星のような形。

交差する鉤。

街に貼られていた文書にも、母の文献にも残されていた。

けれど、この印は違う。

見覚えがない。

それなのに、母はそれを記録の最後に残していた。




「……知らない」




呟きが、部屋の中でひどく小さく響いた。

私は記録を持ち上げ、光に透かした。

紙の向こうに、別の文字や印が隠れていないか確かめる。

何も見えない。

ただの記号にしか見えない。

けれど、母が意味もなく描いたとは思えなかった。

東の水門へ何度も通い、何かを調べ、その記録を残した。

そして最後に、この言葉と、この印を記している。

まるで、誰かに見つけられることを恐れながら、それでも消せなかったように。




私は、開かれた記録を見つめたまま動けなかった。

胸の奥で、いくつもの断片が繋がっていく。

河灯。

東の水門。

母の記録。

僚明。

燈骸教団。

そして_____見覚えのない印。




まだ、答えは出ていない。

けれど、もう「母は何を知っていたのだろう」と考えるだけでは足りなかった。

母は、何かを知っていた。

その何かは、誰かに知られてはならないものだった。

だから母は、記録を破り、言葉を残し、最後にこの印を描いた。

もし、その印が母の死に繋がっているのだとしたら。




同じものを追う私も、すでに見られているのかもしれない。

その考えが浮かんだ瞬間、部屋の静けさが変わった。

窓の外で、風が木々を揺らす。

誰かが近くにいるような気がした。

私は反射的に顔を上げた。

けれど、窓の外には夕暮れの町が広がっているだけだった。

人影はない。

それでも、胸の奥に生まれた不安は消えなかった。




私は記録をそっと閉じた。

手は、もう震えていなかった。

代わりに、逃げてはいけないという感覚だけが残っている。




_____知りたい。




母が何を見つけたのか。

何を追っていたのか。

そして、なぜ死んだのか。

その答えを知る前に、自分も母と同じ場所へ引き寄せられてしまうのではないか。

そんな予感が、はっきりと胸に残っていた。




窓の外では、夕暮れが町を覆い始めている。

差し込んでいた光が薄れ、机の上の記録も闇の中へ沈んでいく。

最後まで残ったのは、母の言葉と、その下に描かれた小さな印だった。




私は、閉じた記録の表紙を見つめる。

見覚えのない印。

けれど、それは母が残した最後の手がかりであり、同時に、まだ誰も知らない危機の入口でもあった。

母が残したものなら、きっと意味がある。

そして、その意味を知るために。






私は、母が戻れなかった場所へ足を踏み入れていくことになる。




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