第二章 父と母 ep.54
母の遺品を整理し始めて、どれくらい経っただろう。
最初の頃は、母が何を持っていたのかを確かめるだけだったのに、いつの間にか私は、物そのものではなく、その物が置かれていた場所を見るようになっていた。
机の引き出し。
本棚の奥。
古い手帳をしまっていた箱。
衣服を入れていた箪笥。
一つ一つ取り出して、埃を払い、表紙を撫で、ページをめくる。
それでも、何かが出てくるわけではない。
母が何を調べていたのかも。
何を知っていたのかも。
どうして東の水門へ行っていたのかも。
答えは、どこにも書かれていなかった。
それでも私は、手を止めることができなかった。
東の水門で見た景色が、頭から離れない。
古びた石壁。
水路の脇に残っていた、いくつもの足跡。
僚名が座っていたと思われる場所。
そして、あの場所を見た瞬間に胸の奥で生まれた、妙な感覚。
_____来たことがある。
あれが自分自身の記憶なのか、それとも母さんから聞かされた話なのか、今でもはっきりとは分からない。
けれど、あの場所と母さんが無関係だとは、もう思えなかった。
だから私は、もう一度、母さんの残したものを最初から見直していた。
同じ本でも、以前とは見え方が違う。
同じ手帳でも、以前なら読み飛ばしていた小さな文字が気になる。
母さんが何気なく残した日付さえ、今では意味があるように思えてしまう。
そんなふうにして、夕方まで机の周りを探していた時だった。
ふと、本棚の一番下に目が止まった。
そこには、古い木箱が置かれていた。
蓋は少し歪んでいて、表面には薄く埃が積もっている。
私はしゃがみ込み、指先で埃を払った。
さらさらとした感触が指に残る。
この箱を開けた記憶は、ない。
少なくとも、母さんの遺品を整理し始めてからは一度も触っていなかった。
そっと蓋を持ち上げる。
ぎ、と乾いた音がした。
中には、何冊かの古い帳面と、折り畳まれた紙、それから紐で束ねられた書類が入っていた。
どれも古い。
紙の端は黄ばんでいて、触れると少しだけざらつく。
私は、一番上にあった帳面を手に取った。
表紙には何も書かれていない。
開いてみても、最初の数ページには何もない。
さらにめくる。
古い薬草の名前。
死因らしき記述。
簡単な人体の図。
検死に使う器具の名称。
母さんが仕事で使っていたものなのだろうと思いながら、何気なくページをめくっていく。
けれど、途中で手が止まった。
文字が、途中から途切れている。
正確には、ページの中央部分が綺麗に切り取られていた。
「……?」
私は紙の端を指でなぞった。
破ったというより、刃物か何かで切り取ったような跡だった。
その下のページも。
さらにその下も。
何枚か続けて、同じように一部が抜け落ちている。
そこだけ、まるで最初から存在しなかったみたいだった。
私は眉を寄せ、残された文字を読む。
日付。
場所。
名前らしきもの。
そして、検死結果と思われる短い記録。
けれど、肝心な部分だけがない。
私は次のページへ進む。
そこにも同じだった。
また一枚。
さらに一枚。
読める文字を繋ぎ合わせても、文章にはならない。
「……何を、書いてたの?」
誰に聞くでもなく呟いた。
当然、返事はない。
窓の外では、夕暮れの風が庭木を揺らしている。
葉と葉が擦れる音が、かすかに聞こえた。
私は帳面を閉じず、そのまま膝の上に置いた。
今まで私は、母さんの遺品を「母が残したもの」として見ていた。
母が読んでいた本。
母が使っていた手帳。
母が書いた文字。
母が大切にしていたもの。
けれど今は違う。
これらは全部、母さんが生きていた頃の行動を残したものでもある。
母が何を見て。
どこへ行って。
何を書いて。
何を残そうとしたのか。
その痕跡なのだ。
そう思った瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
私は箱の中に残っている紙を、一枚ずつ確認していく。
手紙。
古い記録。
誰かから届いたらしい封書。
検死の控え。
どれも決定的なものではない。
けれど、ひとつだけ気になるものがあった。
紙の束の一番下。
他のものより少しだけ厚い紙が、何枚か重なっている。
私はそれを持ち上げた。
すると、束の間から何かが滑り落ちた。
小さな紙片だった。
床に落ちる。
ひらり、と白い面を上にして。
私は息を止めた。
拾い上げる。
紙は古く、端が破れていた。
文字も途中で切れている。
それでも、数行だけは読むことができた。
そこには、母の字があった。
見慣れた筆跡だった。
細く、少し右へ傾いた文字。
私は何度も見てきた字だ。
母さんが買い物の予定を書いた時も。
私に薬を飲ませるために書いた時も。
父さんへの短い置き手紙を書いた時も。
同じ字だった。
けれど。
そこに書かれていた内容は、私が今まで見た母さんの文字とは少し違っていた。
日付。
場所。
そして、その下に短い一文。
私は何度も読み返す。
「……東の、水門……?」
声に出した瞬間、胸の奥が強く鳴った。
紙片には、東の水門という文字が残されていた。
それだけだった。
誰と会ったのか。
何を見たのか。
何のために行ったのか。
そこには何も書かれていない。
続きがあったはずなのに、紙の右側が大きく破れている。
私は破れた先を見つめた。
その先に、母が書いた言葉があったはずなのに。
もう読むことはできない。
指先に力が入る。
紙が、かすかに鳴った。
「……なんで」
思わず呟いた。
どうして母さんは、東の水門について書いていたのだろう。
どうしてその記録は、途中でなくなっているのだろう。
そして何より_____。
なぜ私は、こんなものを今まで見つけられなかったのだろう。
私は紙片を机の上へ置き、しばらく動けなかった。
答えが見つかったわけではない。
むしろ、逆だった。
東の水門。
僚名。
母さん。
そして、切り取られた記録。
これまで別々だったものが、一本の細い糸で繋がり始めている。
けれど、その先に何があるのかは、まだ見えない。
私はもう一度、紙片に目を落とした。
母の文字は、途中で途切れている。
まるで母自身が、そこで言葉を失ったように。
私は紙片をそっと拾い上げる。
破れた端が、指先に引っかかった。
痛いほどではない。
それなのに、なぜか胸の奥まで切られたような気がした。
母は何を見ていたのだろう。
何を知ろうとしていたのだろう。
そして_____。
何を、残そうとしたのだろう。
私は答えのない紙片を、しばらく手の中で握っていた。




