第二章 父と母 ep.53
その日の午後、私はまた母の部屋にいた。
東の水門から戻ってきてからというもの、ここにいる時間が増えている。
机の上には、昨日まで何度も目を通した古い地誌と母の手帳、それから水門で見つけたものをまとめた紙束が並んでいた。
窓を少し開けているせいで、外から風が入り込んでくる。
紙の端が、かさり、と小さく鳴った。
私はそれを指で押さえながら、ぼんやりと母の机を眺めた。
この机も、母が死んでからずっとここにある。
木の表面には細かな傷がいくつも残っていて、引き出しの取っ手には長年使われた金属特有のくすみがある。
昔は、母がここに座っている姿をよく見ていた。
本を読んだり、何かを書いたり、ときには夜遅くまで灯りをつけていたり。
私にとっては、それだけの場所だった。
母の机。
母の本。
母の手紙。
母が使っていたもの。
ずっと、そう思っていた。
けれど今は違う。
そこに残されている一つ一つが、母が何をしていたのかを知るための手掛かりに見えてしまう。
私は椅子から立ち上がり、机の引き出しを一つずつ開けていった。
上段には古い便箋と封筒。
二段目には筆記具と、使いかけの墨。
三段目には昔の領収書や仕事関係の書類が束になっている。
どれも以前、一度は見たことがあるものだった。
それでも念のため、紙を一枚ずつ持ち上げていく。
何か見落としている気がした。
そんな根拠のない感覚だけが、ずっと胸の中に残っていた。
最後の一枚をめくった時だった。
_____かすかに、音がした。
こつ。
紙ではない。
私は手を止めた。
もう一度、引き出しの底を指先で軽く叩く。
こつ。
やっぱり何かある。
引き出しを完全に抜き取って裏側を覗き込むと、底板の端にわずかな隙間があった。
私は爪を差し込み、ゆっくりと持ち上げる。
古い木が軋んだ。
すると、底板の下から薄い布に包まれたものが出てきた。
思わず息を止める。
こんなものがあるなんて、今まで知らなかった。
机の上に置き、布をほどく。
中に入っていたのは、小さな木箱だった。
手のひらに収まるほどの大きさで、飾り気はない。
蓋にも文字はない。
鍵穴もない。
ただ、長い間しまわれていたもの特有の、乾いた木と埃の匂いがした。
私は少し迷ってから、蓋を開ける。
中には、細い金属製の鍵が一本入っていた。
銀色だったのかもしれない。
けれど年月のせいで黒ずみ、ところどころ緑青のようなものが浮いている。
鍵の頭には、小さな数字が刻まれていた。
_____三。
それだけだった。
私は鍵を持ち上げ、灯りにかざした。
何の鍵だろう。
家のものではない。
少なくとも、私は見たことがない。
母の部屋にも、この家にも、この形の鍵が合う場所は思いつかなかった。
そして、鍵の下にはもう一つ。
折り畳まれた小さな紙が入っていた。
私は慎重に開く。
紙はかなり古く、端が少し黄ばんでいた。
そこには、母の字が一行だけ書かれていた。
『返却不要』
私は眉を寄せた。
それだけだった。
誰に返す必要がないのか。
そもそも、この鍵が何なのか。
何一つ分からない。
紙を裏返す。
何もない。
もう一度表を見る。
やっぱり一行だけ。
私はしばらく、その文字を見つめていた。
_____返却不要。
母らしい字だった。
見慣れている。
何度も見てきた文字なのに、今はまるで知らない人の書いたもののように感じる。
私は鍵を掌の上で転がした。
ひやりとした金属の冷たさが、皮膚にじんわりと伝わってくる。
母はこれを、何に使っていたのだろう。
どこかの倉庫。
誰かの部屋。
役所の保管庫。
あるいは_____。
そこまで考えて、私は手を止めた。
中央記録庫。
頭の中に、その言葉が浮かんだ。
けれど、すぐに首を振る。
まだ分からない。
中央記録庫にこんな鍵があるなんて聞いたこともないし、母がそこに入っていたという証拠もない。
ただの古い鍵かもしれない。
母が昔、仕事の途中で預かったものかもしれない。
あるいは、何年も前に使い終わって、そのまま忘れていただけかもしれない。
私は木箱の中をもう一度覗いた。
何もない。
鍵と紙。
たったそれだけ。
なのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
私は机の上に置いていた母の手帳を引き寄せる。
ページを捲る。
東の水門。
あの地誌に残されていた書き込み。
何度も繰り返されていた地名。
母が調べていたらしい死体の記録。
燈骸教団。
そして、今見つかった鍵。
一つずつなら、ただの偶然に見える。
けれど、こうして並べてみると、どれも母の周りにあったものだということだけは分かる。
私は手帳の上に鍵を置いた。
小さな金属音がした。
カチリ。
その音が、やけに大きく聞こえた。
母は何をしていたのだろう。
何を調べて。
誰と会って。
どこへ行って。
何を残そうとしていたのだろう。
東の水門で母が何を見ていたのかも、まだ分からない。
母が何を追っていたのかも分からない。
そして今度は、この鍵が何を開けるのかさえ分からない。
分からない。
また一つ。
分からないものが増えた。
以前なら、それだけで諦めていたかもしれない。
母の残したものなんて、もう昔のことなのだからと。
けれど今は違う。
私は鍵を指先でつまみ上げ、もう一度、その小さな数字を見た。
_____三。
母は、どうしてこんなものを隠していたのだろう。
そして。
なぜ、私に何も残さなかったのだろう。
そう考えたところで、胸の奥に小さな痛みが走った。
私はその感情を追いかけるように、ゆっくりと息を吐く。
まだ答えはない。
けれど、確かに一つだけ分かったことがある。
母の遺品は、思い出をしまっておくための箱ではなかった。
そこには、母が生きていた時間の一部が、まだ誰にも見つからないまま眠っている。
私は鍵を布に包み直した。
そして、母の手帳の隣に置く。
すぐには調べない。
父には聞かない。
斑にも、まだ聞かない。
まずは自分で考えたい。
この小さな鍵が何を開けるのか。
母が、何を残したかったのか。
私は再び机に向かい、手帳の最初の頁から読み直し始めた。
窓の外では、夕方の風が静かに吹いていた。
紙がめくれる音だけが、部屋の中に何度も響いていた。




