第二章 父と母 ep.52
翌朝。
目を覚ましてからしばらく、私は天井を見つめていた。
昨日、東の水門で見た景色が頭から離れない。
湿った石壁。
水面を撫でる風。
古い建物の壁に残っていた、誰かが何度も出入りしたような痕跡。
そして_____母さん。
あの場所に、母も来ていた。
それが分かっただけなのに、世界の見え方が少し変わってしまったような気がした。
これまで私は、母が残したものを何度も見てきた。
古い本も、手帳も、書きかけの紙も、母が使っていた筆も、何年も前の手紙も。
それらは全部、私にとって母の思い出だった。
母がどんな本を読んでいたのか。
どんな字を書く人だったのか。
何を好んでいたのか。
そういうことを知るためのものだと思っていた。
けれど。
もし、母が東の水門へ何度も足を運んでいたのだとしたら。
あの本も。
あの手帳も。
あの紙の束も。
ただ母が残したものではなく、母が何かを追いかけた跡だったのではないだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
私は布団を出て、まだ少し冷たい床に足を下ろした。
朝の家は静かだった。
廊下の向こうから、どこかで木が軋む音がする。
窓から差し込む光はまだ白く、部屋の隅には夜の名残が薄く溜まっていた。
父さんはもう起きているだろう。
けれど、今日は父さんのところへは行かなかった。
昨日、斑と話したことを父さんに伝えるつもりもなかった。
少なくとも今は。
父さんに聞けば、きっと何かを隠す。
母さんの話になると、父さんはいつもそうだった。
だったら、先に自分で確かめればいい。
私は母の部屋へ向かった。
扉を開けると、古い紙と木の匂いが混ざった、懐かしい空気が鼻をくすぐった。
母が亡くなってから長い時間が経っているのに、この部屋にはまだ母がいるような気がする。
机。
本棚。
窓際に置かれた小さな椅子。
棚の上に残された、使いかけの硯。
どれも昔とほとんど変わっていない。
私は机の前に座り、昨日まで何度も見てきたものを一つずつ取り出した。
まずは手帳。
薄い革の表紙には、長い年月のせいで細かな傷がいくつもついている。
頁を開く。
母の字が並んでいた。
検死に関する覚え書き。
遺体の状態。
薬草の名前。
死因についての簡単な考察。
以前なら、それを見ても特に不思議には思わなかった。
母は検死役だった。
だから、こういうことを書いていて当然だと思っていた。
けれど今日は違った。
私は一頁ずつ、ゆっくりと目を通していった。
日付。
場所。
名前。
そして、その横に残された短い言葉。
今までなら読み飛ばしていたような小さな記述にまで、目が止まる。
ある頁に、見覚えのある地名があった。
東。
水路。
水門。
私は指を止めた。
昨日、東の水門で見た景色が蘇る。
石造りの壁。
錆びた金具。
水の匂い。
そして、僚名が何度もそこへ通っていたという事実。
私は手帳を閉じず、その頁をもう一度見た。
書かれているのは、ほんの数行だった。
それだけだった。
誰と会ったのかも。
何を見たのかも。
何を探していたのかも書かれていない。
けれど。
そこに地名がある。
それだけで、昨日までとは意味が違って見えた。
私は別の頁を開いた。
また、同じ地名が出てきた。
今度は少し離れた日付。
さらに数頁進む。
また出てくる。
東。
水路。
水門。
私は眉を寄せた。
偶然ではない。
少なくとも、一度だけ書かれたものではなかった。
けれど、それ以上のことは何も分からない。
私は手帳を机の上に置き、今度は本棚へ向かった。
昨日までなら、母が読んでいた古い地誌だと思っていた一冊を取り出す。
表紙は擦れていて、角は丸くなっている。
何度も開かれたせいか、背表紙には細かな皺が入っていた。
私は椅子に戻り、本を開いた。
古い地図。
街道。
河川。
古い集落。
水路。
昨日見た東の水門周辺の地図もあった。
私は何気なく頁を捲り_____そこで手を止めた。
書き込みがある。
墨で薄く引かれた線。
地名の横に付けられた小さな印。
余白に書かれた、母の字。
一つ。
二つ。
三つ。
東の水門へ続く道だけ、妙に書き込みが多い。
私は息を潜めるようにして頁を見つめた。
今まで、どうして気づかなかったのだろう。
いや。
気づいていたのかもしれない。
ただ、意味を考えなかった。
母が昔読んでいた本だから。
母が昔使っていた手帳だから。
それだけで納得していた。
母はこういうものが好きだったのだと思っていた。
母は昔から物知りだった。
母は本を読むのが好きだった。
母は検死役だった。
だから、こういう記録が残っている。
そうやって全部を、「母」という一人の人間の輪郭の中へ押し込めていた。
けれど。
今は違う。
昨日、東の水門に立った。
そこで母の名前が出てきた。
そして今、母の手帳にも、地誌にも、同じ場所の痕跡が残っている。
偶然だと思うには、少し多すぎた。
私は本を閉じた。
乾いた紙が擦れる音が、静かな部屋に響く。
「……母さん」
呼んでも、当然返事はない。
窓の外では鳥の声が聞こえていた。
遠くから、人の話し声もする。
いつもの朝。
何も変わらない朝なのに。
私の中だけが、少しずつ変わっていく。
母は何をしていたのだろう。
私はもう一度、机の上に並べた手帳と地誌を見る。
東の水門。
そこへ通っていた僚名。
そこへ通っていた母。
そして、母が残したいくつもの記録。
それらはまだ、一本の線にはならない。
繋げようとしても、途中で途切れてしまう。
答えはどこにも書かれていない。
けれど_____。
母が何かを調べていたのだとしたら。
その何かは、死体そのものではなかったのかもしれない。
私はそこで、初めてそんな考えに辿り着いた。
検死役だった母が死体を調べる。
それは当然だ。
けれど、死体から得た情報を持って、わざわざ東の水門へ向かう理由は何だろう。
地誌に何度も同じ場所を書き込む理由は。
手帳に同じ地名を残す理由は。
母は、死体を見て終わっていたのではない。
死体の向こう側にある何かを、追っていたのではないだろうか。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
私は椅子から立ち上がり、本棚を見上げた。
そこには、まだ何十冊もの本が並んでいる。
母が残したもの。
私が何年も、ただ母の思い出として見ていたもの。
もしかすると、その一つ一つに、母が残したかった何かがあるのかもしれない。
けれど。
それが何なのかは、まだ分からない。
私は手帳を閉じた。
そして、机の上に置かれた古い地誌をもう一度手に取る。
紙の匂いがした。
乾いた、少し埃っぽい匂い。
その中に、ほんの僅かに母の使っていた香油のような匂いが残っている気がした。
私はその本を胸元へ引き寄せる。
母が生きていた頃には、何も思わなかった。
母が本を読むことも。
何かを書き留めることも。
夜遅くまで机に向かっていることも。
全部、母の日常だった。
けれど今になって、その日常の一つ一つが、別の意味を持ち始めている。
「……母さんは、何を探してたの?」
静かな部屋に、私の声だけが落ちた。
答えはない。
ただ、窓から入った風が紙を一枚だけ揺らした。
その音に誘われるように、私はまた頁を開いた。
今度は、母の思い出を見るためではない。
母が何を見ていたのかを知るために。
母が、何を残そうとしていたのかを知るために。
そして_____。
母がなぜ、あの場所へ行っていたのかを知るために。
私は一頁目から、もう一度読み始めた。




