第二章 父と母 ep.51
その夜、私は母さんの遺品をもう一度最初から見直していた。
机の上には、古い本と手帳、それから何枚かの手紙が広げられている。
窓の外では風が弱く吹いていて、時折木の葉が擦れ合う音が聞こえていた。
部屋の中には、紙を捲る音だけが響いている。
一度見たものを、もう一度見る。
昨日までなら、そんなことをする意味はなかったと思う。
けれど今は、同じものを見ても違うものが見える気がしていた。
私は棚の奥から、一冊の本を取り出した。
古い地誌だった。
燈華国の各地について書かれた本で、街の成り立ちや河川、水路、街道、昔の地名などがまとめられている。
母さんが生きていた頃から家にあったもので、表紙は日に焼けて茶色く変色し、背表紙の端には何度も触れた跡が残っていた。
子供の頃、たしか一度だけ母さんにこの本について尋ねたことがある。
その時母さんは、
「昔のことを知るのは面白いでしょう?」
と笑っていた。
だから私は、ずっとそういう本なのだと思っていた。
母さんが好きで読んでいた、少し古い地誌。
それだけのものだと。
私は膝の上に本を置き、ゆっくりと頁を開いた。
紙が乾いている。
指先にざらついた感触が伝わってくる。
頁を捲る度に、古い地誌特有の匂いが立ち上った。
私は東の水門について書かれている辺りを探した。
地図を辿っていくと、水路に沿っていくつかの地名が並んでいる。
その中に、見覚えのある名前があった。
「...ここ」
東の水門の近くにある地名。
水門そのものではない。
少し離れた場所にある、小さな地区の名前だった。
私はそこを指でなぞった。
何気なく頁をめくろうとして_____。
止まった。
地名のすぐ横に、小さな書き込みがあった。
細い筆跡だった。
母さんの字だ。
私は顔を近づける。
短い言葉が書かれている。
『水量が多い』
それだけだった。
「...水量?」
私は首を傾げた。
その頁には、水門周辺の水路について簡単な説明が載っている。
だから、その書き込み自体は不自然ではない。
母さんは検死役だった。
水の流れや水路の状態が、遺体の発見場所や死因に関係することだってあったのだろう。
そう考えれば、何もおかしくはない。
私はそのまま頁を捲った。
けれど、しばらくしてからまた同じ地名が出てきた。
そこには別の書き込みがある。
『夕刻、人通り少ない』
私は眉を寄せた。
さっきと同じ場所。
偶然だろうか。
さらに頁を捲る。
今度は地図の端に、薄い墨の線が引かれていた。
その線は水路を辿り、別の地名のところで止まっている。
「...」
私は黙ったまま、本を閉じた。
そして、もう一度開いた。
今度は最初から見る。
地名。
書き込み。
地名。
書き込み。
一つ一つは、本当に小さなものだった。
「水量が多い」
「夕刻、人通り少ない」
「旧道あり」
「水門より東」
どれも、それだけを見れば意味があるような、ないような言葉ばかりだった。
でも。
私は頁を捲る手を止めた。
「...また」
同じ地名がある。
今度は書き込みがなかった。
ただ、その地名の部分だけ、他の場所より紙が少し擦れている。
何度も指で触ったような跡だった。
私は本を机の上に置いた。
そのまま、母さんの手紙を取り出す。
薄い革張りの手帳。
これも以前に見たことがある。
母さんが日々の予定を書いていたものだと思っていた。
私は頁を捲った。
最初の方には、仕事の予定や買い物のことが書かれている。
食材。
検死の予定。
宮城へ行く日。
私の誕生日。
父さんの仕事の予定。
どれも、ごく普通の記録だった。
母さんが生きていた頃の生活が、そのまま残っている。
私は少しだけ胸が苦しくなった。
この文字を書いた人が、もういない。
そんな当たり前のことを、改めて突きつけられる。
けれど、頁を捲っているうちに、私はまた手を止めた。
さっきの地名。
手帳の中にも、その名前があった。
一度ではない。
二度。
三度。
さらに後ろにも、また一度。
日付はばらばらだった。
けれど、その地名だけが何度も繰り返されている。
「...どうして?」
私は呟いた。
予定を書いた頁もあれば、何も書かれていない日の端に、その地名だけが残されている頁もあった。
ある日は、
『東』
とだけ。
別の日には、
『水路確認』。
その次には、
『夕方』。
そして、また地名。
私は手帳を膝の上に置いた。
頭の中で、今日見た水門が浮かんだ。
古びた木造の建物。
湿った土。
水の匂い。
僚名が何度も通っていた場所。
そして、母さんも。
「...何してたの」
答える人はいない。
私は手帳を捲る。
その地名が書かれた頁を前後から何度も見直す。
けれど、そこには何もない。
誰と会ったのか。
何を見たのか。
何を探していたのか。
なぜ、その場所へ行っていたのか。
肝心なことは、何一つ書かれていなかった。
まるで、母さん自身がそれだけで分かると思っていたみたいに。
「...分かるわけないよ」
思わず、少しだけ笑ってしまう。
もちろん返事はない。
私は手帳を閉じた。
古い地誌も、その隣に置く。
二つを並べて眺める。
地誌には、何度も同じ場所が書かれていた。
手帳にも、何度も同じ地名が残されていた。
けれど、その二つを繋ぐものはない。
ただ、母さんがその場所を何度も気にしていたらしいということだけが、静かに残っている。
私は地誌の表紙を撫でた。
昨日までなら、この本を見て母さんを思い出しただろう。
母さんが好きだった本。
母さんが何度も読んでいた本。
ただ、それだけだった。
でも今は違う。
この本の中に、母さんが何かを探していたのではないかと思ってしまう。
手帳に残された地名も、ただの予定ではなかったのではないかと思ってしまう。
そう考え始めると、何もかもが意味を持っているように見えてくる。
けれど_____。
「...違うかもしれない」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
母さんが地誌を読んでいた理由なんて、いくらでも考えられる。
検死の仕事で必要だったのかもしれない。
水路について調べていただけかもしれない。
その地名に何か用事があっただけかもしれない。
手帳の書き込みだって、仕事の予定だった可能性はある。
私が勝手に意味を見つけようとしているだけなのかもしれない。
そう思うと、少しだけ安心した。
でも。
完全には安心できなかった。
机の上に置いた地誌を、もう一度見る。
その古びた表紙。
擦れた角。
何度も開かれた頁。
そして、そこに残された母さんの細い文字。
私は指先で、その文字をそっとなぞった。
母さんは何を見ていたのだろう。
何を知っていたのだろう。
何を探していたのだろう。
分からない。
まだ、何も。
それでも。
私は初めて思った。
母さんが残したものは、思い出だけではないのかもしれない。
もしかしたら。
母さん自身が最後まで見つけられなかった何かが、ここに残されているのかもしれない。
私は地誌と手帳を、静かに棚に戻した。
答えはなかった。
けれど、問いだけは少しずつ増えていた。




