第二章 父と母 ep.50
家に戻った頃には、空はすっかり暗くなり始めていた。
玄関を開けると、昼間より少し冷えた空気が流れ込んでくる。
私は靴を脱ぎながら、無意識に水門の方を振り返った。
もちろん、ここから見えるはずもない。
それでも、あの場所の景色が頭から離れなかった。
東の水門。
僚名が何度も通っていた場所。
そして_____母さんも、かつてそこへ行っていた。
「...母さん」
小さく呟いてから、私は部屋へ向かった。
夕食の支度をするにはまだ少し早い。
だから私は、久しぶりに母さんの遺品が置かれている棚の前に座った。
今までにも、何度もここを見ている。
母さんが使っていた古い本。
手紙。
書きかけの紙。
仕事で使っていたらしい記録帳。
小さな箱に入れられた文具。
どれも、母さんが生きていた頃からずっとこの家にあるものだった。
私はそれらを、一つずつ眺めた。
これまでなら、ただ懐かしいと思っていた。
この本は母さんがよく読んでいた。
この便箋は、母さんが手紙を書く時に使っていた。
この筆は、いつもの机の上に置いてあった。
そんなふうに、私はずっと見ていた。
けれど。
今日からは少し違って見える。
私は棚から一冊の本を取り出した。
表紙には、何度も触れた跡が残っている。
角は擦れていて、背表紙も少し色褪せている。
以前なら、その古さを見て「母さんが大切にしていた本なんだ」と思っていた。
けれど今は。
「...どうしてこれを持ってたんだろう」
本を開く。
頁の間から、乾いた紙の匂いがした。
何度も読んだような跡がある。
ところどころ、端が折られている。
以前にも見つけたことのある折り目だった。
私はその頁を開いた。
そこには、死体について書かれた文章がある。
医学的な内容。
死後に身体に起こる変化。
水に関する死について。
私は指で文字をなぞった。
「...ただ好きで読んでたんじゃ、ないよね...」
今まで、母さんがこういう本を読んでいたことに疑問を持ったことはなかった。
母さんは昔から物知りだった。
分からないことがあれば本を開く人だったし、私が何かを尋ねればすぐには答えずに一緒になって調べてくれる人だった。
だから、こういう本を持っていることも、母さんらしいとも思っていた。
これを見つけた時から、母さんは何かを調べていたのではないかという”推測”はしていた。
でも。
東の水門で、母さんの姿を知ってしまった今は違う。
本の頁が、別の意味を持ち始めている。
水。
死体。
検死。
それから、母さんが何度も訪れていた場所。
「...何を、調べていたの?」
返事はない。
当然だった。
部屋には私しかいない。
時計の針が進む音だけが、静かな部屋に響いている。
私は本を閉じた。
そして、隣に置いていた手紙の束へ手を伸ばした。
今までに何度か読んだ手紙だった。
母さんが誰かと交わしていたもの。
日付を確認して、差出人を確認して、それからなんとなく内容を読んで終わっていた。
私は一枚を取り出した。
「...これ」
以前は気にしなかった一文が、目に留まった。
水路の管理について。
検死について。
それから、ある人物の名前。
私は眉を寄せた。
以前にも、この名前を見たことがある気がする。
けれど、どこで見たのかまでは思い出せない。
私は別の手紙を開いた。
そこにも、似たような言葉がある。
さらに別の一枚。
また同じ言葉。
偶然だと思っていた。
母さんが仕事をしていたのだから、検死や水路について書かれていても不思議ではない。
けれど_____。
「...同じだ」
私は呟いた。
一つ一つなら、何の意味も無い。
本に書かれていること。
手紙に書かれていること。
記録帳に残されていること。
それだけなら、ただの母さんの生活の一部だ。
でも、それらを並べてみると。
まるで同じ場所を指しているように見える。
私は棚から記録帳を取り出した。
頁を捲る。
日付。
名前。
検死内容。
仕事の記録。
その中に、何度か短い書き込みがあった。
私は以前、それを見ても深く考えなかった。
けれど今は、その一つ一つが気になる。
この日に何があったのか。
この名前は誰なのか。
なぜ、この頁だけ何度も開かれたような跡があるのか。
私は記録帳を膝の上に置いた。
胸の奥が、少しずつ騒がしくなっていく。
母さんは、何かを調べていた。
その考えが、今度は頭から離れなかった。
「でも...何を?」
私は本を見た。
手紙を見た。
記録帳を見た。
全部、母さんが残したものだ。
昨日までなら、そこに「母さんの思い出」を見ていた。
母さんが読んでいた本。
母さんが書いた手紙。
母さんが使っていた記録帳。
けれど今は。
それらが全部、別の顔を見せている。
母さんが何かを探していた証拠なのかもしれない。
そう考えるだけで、同じ紙の上にある文字が急に意味を持ち始めた。
私は手紙を一枚ずつ並べていく。
日付順に。
本の中にあった書き込みも、覚えている限り書き出す。
記録帳にある気になる箇所にも印をつける。
すると、ばらばらだったものが少しずつ近づいてくる。
東の水門。
水に関する記述。
検死の記録。
母さんが残した本。
そして、何度も出てくるいくつかの言葉。
「...これ、全部...」
私は言葉を止めた。
まだ、何も分からない。
母さんが何を調べていたのかも。
なぜ東の水門へ行っていたのかも。
そこに誰がいたのかも。
それでも。
今までただの「思い出」だったものが、少しずつ「手掛かり」に変わり始めている。
私は本を閉じた。
その表紙を両手で包む。
幼い頃、母さんの膝の上で読んでもらった本だった。
あの頃は、母さんがどうしてこの本を持っているのかなんて考えたこともなかった。
ただ、母さんの声を聞きながら頁を捲る時間が好きだった。
それだけだった。
「...母さん」
静かな部屋で、もう一度呼ぶ。
今度は少しだけ違う気持ちだった。
懐かしいだけではない。
寂しいだけでもない。
知りたい。
母さんが何を見ていたのか。
何を探していたのか。
どうして、あの水門へ行っていたのか。
そして_____。
なぜそれを、私には何も話さなかったのか。
私は机の上に広げた母さんの遺品を見渡した。
同じ本。
同じ手紙。
何度も見てきたはずなのに。
今はまるで、初めて見るもののようだった。




