第二章 父と母 ep.49
水門を離れてからも、私は何度も後ろを振り返った。
古びた木造の水門は、夕暮れの薄紫色の空の下でじっと佇んでいる。
遠ざかるにつれて小さくなっていくはずなのに、なぜか視界から消えてくれない。
あの場所に立った時に感じた、妙な懐かしさ。
見たことがあるような気がする。
けれど、いつ見たのかは思い出せない。
「...紗詠」
隣を歩いていた斑が、不意に口を開いた。
「何?」
「さっきのことだ」
「水門?」
「あぁ」
斑は少しだけ言葉を選ぶように黙った。
「本当に、来たことがあるのか?」
「...分からない」
「記憶には?」
「ない」
そう答えてから、私は少し考えた。
「でも、知ってる気がした」
「知ってる?」
「うん」
私は歩きながら、さっき見た景色を思い出す。
錆びた金具。
水門の前を流れる水。
石壁。
古い木戸。
湿った土の匂い。
どれも初めて見るはずなのに、見た瞬間から胸の奥に何かが引っかかっていた。
「昔、父さんと行ったのかな」
「それは覚えてないのか?」
「覚えてない」
「母親とは?」
その言葉に、私は足を少しだけ緩めた。
母。
その名前を頭の中に浮かべるだけで、不思議とさっきの景色が近くなる。
「...分からない」
けれど、今度の「分からない」は、さっきまでとは少し違った。
私は目を閉じる。
幼い頃の記憶を、一つずつ辿っていく。
母の手。
柔らかな声。
家の窓から差し込む朝の光。
本を読んでいる横顔。
洗濯物を干す時に髪を耳へかける仕草。
夕方になると、台所から漂ってくる煮物の匂い。
そういうものは、いくらでも思い出せる。
けれど、水門だけがない。
「...母親と、どこかに行ったことは?」
斑が聞いた。
「たくさんあるよ」
「水門は?」
「ないと思う」
「思う?」
私は少し困って笑った。
「子供の頃のことだから、全部は覚えてない」
斑は何も言わなかった。
ただ、歩きながら私の顔を見ていた。
その視線が気になって、私は斑を見る。
「何?」
「いや」
「何か思った?」
「...昔、お前が似たようなことを言ってた気がする」
「私が?」
「あぁ」
斑は前を向いた。
「どこで聞いたかは、まだ思い出せねぇけどな」
「なんて言ってたの?」
「それが分からん」
「斑も分からないんだ」
「うるせぇ」
少しだけ笑う。
けれど、その直後だった。
斑の足が止まった。
「...待て」
「どうしたの?」
斑は振り返らずに、しばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「今の話、もう一度しろ」
「え?」
「母親と水門に行ったことがあるかって聞いた時、お前は何て答えた?」
「...ないと思う、って」
「その前」
私は少し考えた。
「母さんと、どこかに行ったことはあるかって聞かれて、たくさんあるって...」
「その前だ」
「その前?」
斑が私を見る。
「お前、最初に『知ってる気がする』って言っただろ」
「うん」
「その時、何を思った?」
「...何をって」
私は言葉に詰まった。
何を思ったのだろう。
懐かしい。
それだけではない。
もっと別のもの。
景色そのものではなく、そこに重なっている何か。
私は目を伏せた。
「...母さんのことを思い出した」
斑の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
けれど、私は気づいた。
「斑?」
「...そうか」
「何?」
「いや」
斑は少し考えてから、静かに言った。
「お前がさっき見てた場所、俺にも見覚えがある」
「え?」
「水門そのものじゃない」
斑は眉間に皺を寄せた。
「その近くにある古い建物だ」
「古い建物?」
「あぁ」
「どうして?」
「昔、見たことがある」
「いつ?」
「...お前の母さんが生きてた頃だ」
胸の奥が、どくんと鳴った。
私は足を止めた。
「母さんが?」
「あぁ」
斑も立ち止まる。
「俺が補佐役になったばかりの頃だったと思う」
その言葉を聞いて、頭の中で何かが繋がりかけた。
斑が十三歳だった頃。
母がまだ生きていた頃。
私は九歳だった。
斑は仕事で母のそばにいた。
私はその頃の検死室のことを知らない。
けれど_____。
母と斑が仕事をしていた時間に、何かがあったのだろうか。
「...母さんは、そこに行ってたの?」
「多分」
「多分?」
「俺が見たのは一度だけだ」
斑はそう言って、水門の方を振り返った。
「母親があの辺りから戻ってくるところを見た」
「...一人で?」
「あぁ」
「何をしていたの?」
「そこまでは知らねぇ」
「じゃあ、どうして母さんだと分かったの?」
斑は少しだけ黙った。
「お前の母親は、あの頃から仕事の帰りに一人でどこかへ寄ることがあった」
「...」
「俺は補佐役になったばかりで、仕事のことを覚えるので精一杯だったからな。あの時は特に気にしなかった」
「でも、覚えてた」
「あぁ」
斑は苦く笑った。
「妙に印象に残ってたんだ」
私は何も言えなかった。
胸の奥がざわついている。
母が水門へ行っていた。
それだけなら、まだ偶然かもしれない。
けれど。
僚名もそこへ通っていた。
何度も。
母も、そこへ行っていた。
私はもう一度、東の水門を振り返った。
さっきまでただの古い水門にしか見えなかった場所が、今は違って見える。
水の流れる音。
湿った土。
古い建物。
人の気配がほとんどない道。
そして、胸の奥に残っていた懐かしさ。
あれは、私自身の記憶だったのだろうか。
それとも_____。
母から聞かされていた話を、私は忘れていただけなのだろうか。
「...私」
口から、自然と言葉が漏れた。
「本当に、ここへ来たことがあるのかもしれない」
斑は何も言わなかった。
私は自分の記憶を探る。
すると、ほんの一瞬だけ。
母の声が浮かんだ。
幼い頃、母の膝元で本を読んでいた時。
母が何気なく話してくれた、どこかの場所の話。
水の音。
古い建物。
夕方になると風が冷たくなる場所。
でも、それが本当に水門の話だったのかは分からない。
記憶の中の言葉はあまりにも曖昧で、手を伸ばせば霧のように消えてしまう。
「...斑」
「ん?」
「母さんは、何をしにあそこへ行ってたのかな」
斑はすぐには答えなかった。
やがて、静かに言う。
「それを知るには、母親の残したものを調べるしかないだろうな」
私は頷いた。
母の本。
母の手紙。
母が残した記録。
これまで私は、それらをただ「母が残したもの」として見ていた。
そこに母の過去があるとは思っていた。
でも、それはどこか遠い昔の話だと思っていた。
母が死ぬ前に何をしていたのか。
何を考えていたのか。
誰と会っていたのか。
どこへ行っていたのか。
私は何も知らない。
そして今。
その知らなかった過去が、目の前で一つの形になり始めている。
僚名が通っていた場所。
母が訪れていた場所。
偶然なのか。
それとも_____。
二人は同じものを見ていたのか。
私は水門を見つめた。
夕暮れの光が地面に細く伸び、その光がゆっくりと揺れている。
まるで水の底に、まだ何かが沈んでいるようだった。
「...母さんも、ここに来ていたんだ」
自分の口から出たその言葉を聞いて、私は初めて実感した。
母の過去と、今起きている事件が。
初めて同じ場所で重なった。




