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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第二章 父と母 ep.48




私は外套の襟を少しだけ寄せた。

夕方の空気は思っていたより冷たく、湿った水の匂いが鼻の奥に残る。




目の前には、大きな木造の水門があった。

長い年月を経ているのだろう、木材はところどころ黒ずみ、金具には薄く錆が浮いている。

水門の向こう側では、川から引かれた水が細い水路へ流れ込み、その先は街の東側へ伸びているらしい。

周囲には建物がほとんどない。

少し離れた場所に、使われていない倉庫のような建物が一つ。

あとは低い石壁と草むらが続いているだけだった。




「人、いないね」

「だから僚名は来やすかったんだろうな」




斑が水門を見ながら言った。

私は周囲を見回す。

確かに、誰かに見られずに何かをするには都合がいい場所だった。

けれど、それだけではない気がした。

僚名は一度だけ来たわけではない。

母親の話では、何度も。

仕事が終わった後にここへ来て、しばらくして帰っていた。

その理由が、まだ分からない。




「まずどこから見る?」

「水路沿いだな」




斑がしゃがみ込んだ。

私はその隣に腰を下ろす。

土は少し湿っていた。

指で触れなくても分かるほど柔らかく、靴底が沈んだ跡がところどころ残っている。

斑はその一つに目を留めた。




「...足跡」




私も覗き込む。

水路沿いの土に、いくつかの靴跡が残っていた。

大きさも形もバラバラで、最近ついたものなのか、何日も前のものなのかまでは分からない。




「僚名のものかな?」

「まだ分からん」




斑はそう言いながら、周囲を見た。




「ただ、ここを歩いてる奴がいるのは確かだ」

「何人くらい?」

「それも分からん」

「...分からないことばっかりだね」




私が言うと、斑が少しだけ笑った。




「調べに来たんだから、それでいいだろ」




私は返事をせず、もう一度地面を見る。

足跡は水門の方へ向かっているものもあれば、水路の奥へ続いているものもある。

けれど、そのほとんどは途中で途切れていた。




「斑」

「ん?」

「こっち」




少し先に、草が不自然に倒れている場所があった。

近づいてみると、石壁の陰に小さな平らな場所ができている。

人が何度も座ったように草が潰れていて、そのすぐ前には水路があった。

水面を見下ろすにはちょうどいい高さだった。




「...ここ、誰かが座ってたんじゃない?」




斑が周囲を見る。




「そうだな」




私はその場所に立った。

水門が正面に見える。

水の流れも、周囲の道もよく見渡せる。

そして、少し離れたところには先ほどの古い建物がある。

ここからなら、建物の出入りも確認できる。




「何かを待ってたのかな」

「かもしれん」

「僚名が?」

「分からん」




斑はそう言ったが、今度はすぐに視線を逸らさなかった。

その場所をじっと見ている。

私も同じように、そこから見える景色を眺めた。

水門。

水路。

古い建物。

その向こうに続く細い道。

何もない。

ただそれだけなのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。




「...何か変」

「何が?」

「分からない」




私は自分でも理由が分からず、眉を寄せた。




「でも、ここ...」




言葉が続かない。

視線を動かす。

水門の錆びた金具。

石壁。

水路の端に生えている草。

古い建物の木戸。

どれも初めて見るはずなのに。

なぜか、ひどく懐かしい。




「...ここ、来たことがある気がする」




口から零れた言葉に、自分自身が一番驚いた。

斑が振り向く。




「いつ?」

「分からない」

「昔か?」

「...多分」




私はもう一度、周囲を見渡した。

記憶の中を探してみる。

幼い頃のこと。

父さんと歩いた道。

母さんと見た景色。

斑と遊んだ日々。

けれど、どこにもこの場所は出てこない。

それなのに。

胸の奥だけが、この場所を知っているような気がした。




「夢でも見たんじゃねぇか」




斑が言う。




「そうかも」




私は苦笑した。

けれど、斑は笑わなかった。




「...無理に思い出そうとするな」

「どうして?」




私は少しだけ斑を見る。

斑は水門の方を見たまま、静かに続けた。




「記憶なんて、探そうとすると余計に変になる」

「...うん」




風が吹いた。

水路の水面が細かく揺れ、夕方の光がその上で砕ける。

その光景を見ていると、ほんの一瞬だけ別の景色が重なったような気がした。

誰かの声。

紙を捲る音。

湿った空気。

そして_____。

水の匂い。

私は思わず目を閉じた。

けれど、次に目を開けた時には、そこにはただ古い水門があるだけだった。




「紗詠」




斑の声がする。




「何?」

「もう少し向こうを見てみる」




私は頷いた。




「私も行く」




二人で水路沿いを歩き始める。

その先には、誰かが使っているような小さな足場があった。

古びた木箱が一つ置かれ、その上には乾いた布と、空になった小さな瓶が残されている。

斑がしゃがみ込み、布には触れずに目だけで確認する。




「最近使われた可能性はあるな」




私は木箱の周囲を見る。

決定的なものは何もない。

名前もない。

印もない。

何をしていたのか分かる道具もない。

ただ、人がここを繰り返し使っていた痕跡だけが残っている。

僚名も、その一人だったのだろうか。

そして、ここで何を見ていたのか。

私は水門の向こうへ目を向けた。

水は静かに流れている。

何も知らない顔で。




「...僚名は、ここで何かを待ってたのかな」

「それとも、誰かを見てたのかもしれない」




斑の言葉に、私は顔を上げた。




「誰かを?」

「あぁ」




斑は水門の方を見た。




「ここからなら、水門を通る人間も、水路沿いを歩く人間も見える」




私は黙ってその景色を眺める。

僚名がここに座っていたとしたら、彼は何を見ていたのだろう。

誰を待っていたのだろう。

そして_____。

なぜ、誰にも話さなかったのだろう。




答えは、水の音に紛れてどこにも見つからなかった。

ただ一つ。

私はもう一度水門を見た。

胸の奥に残った、あの妙な感覚だけが消えない。




まるで私は、ここを知っている。




ずっと昔から。




そんな気がしていた。




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