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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第二章 父と母 ep.47




夕暮れが少しずつ深くなっている。

さっきまで薄く残っていた雲は、日が傾くにつれて紫がかった灰色に変わり、建物の屋根や石畳の上に長い影を落としていた。

私は手の中にある記録を見下ろした。

三ヶ月前。

僚名が東の水門へ通い始めた日。

あの日付を見た時に感じた、あの妙な感覚がまだ消えない。




「...斑」

「ん?」

「さっきのことなんだけど」

「何だ」

「僚名が東の水門へ通い始めたのが、三ヶ月前だったよね」

「あぁ」

「何か、きっかけがあったのかな」




斑は少し考えるように黙った。




「仕事先では、何か変わったことはなかったらしい」

「うん」

「少なくとも、母親はそう聞いている」

「じゃあ、仕事が理由じゃない?」

「分からねぇ」




短い答えだった。

けれど、今回はそれ以上の言葉を待たずとも、その意味が分かった。

まだ分からない。

だから調べる。

それだけだ。

私は歩きながら、先ほどの紙を思い出していた。

日付。

時間。

東の水門。

それだけが何度も繰り返されていた。

誰かと会う予定を書いていたのなら、相手の名前があってもいい。

仕事なら、仕事の内容を書き残していてもおかしくない。

何かを探していたのなら、その目的を示す言葉くらいあってもいい。

けれど、そこには何もなかった。

まるで。




_____誰(・)か(・)に(・)見(・)ら(・)れ(・)る(・)こ(・)と(・)を(・)恐(・)れ(・)て(・)い(・)た(・)ような書き方だった。




「...ねぇ」

「今度は何だ」

「あの紙って、誰かに見られたくなかったのかな」

「どうしてそう思う?」

「だって、何も書いてないから」

「何も?」

「うん。場所と時間だけ」




私は指先で、紙の上に並んでいた数字をなぞるように思い出す。




「自分だけが分かれば良いような書き方だったでしょう」




斑は少し黙ってから、




「それはあるかもな」




と言った。

その声には、わずかに考え込むような響きがあった。




「でも、それならどうして帳面にも残していたんだろう」

「忘れないためじゃねぇか」

「忘れないため?」

「何度も同じ場所に行ってるなら、次に行く日を覚えておく必要があったのかもしれない」

「...誰かとの約束?」

「可能性はある」




私は黙り込んだ。

誰かと会っていた。

何かを受け取っていた。

何かを見ていた。

あるいは、誰かを待っていた。

考えれば考えるほど、答えのない想像だけが増えていく。

けれど、今の私たちには、それを確かめる方法が一つしかない。

実際に、その場所を見ること。




「あとどれくらい?」

「もう少しだ」

「意外と近いんだ」

「街の東端だからな」




斑が前方を指した。

建物の隙間から、水路が見え始めていた。

さっきまで人の声や店の呼び込みが絶えなかった通りも、いつの間にか静かになっている。

店の数が減り、家々の間隔が広くなっていた。

代わりに、水の流れる音が少しずつ大きくなっていく。

さらさらという小さな音ではない。

もっと低く、重たい音だった。

大量の水が一定の方向へ流れていく音。

私は耳を澄ませた。




「...水門って、あんな音がするんだ」

「近くまで行けばもっと聞こえる」

「僚名も、毎回この音を聞いてたのかな」

「さぁな」




斑がそう答える。

けれど、その声はいつもより少し低かった。

私は前を向いた。

水路に沿って伸びる道を歩く。

道端には背の低い草が生えていて、濡れた葉が夕暮れの光を受けている。

時折、風が吹くと草の先に溜まった雫が揺れて、細かな水滴が石の上へ落ちた。

その匂いが、少しだけ鼻につく。

湿った土。

水。

苔。

そして、どこか鉄のような匂い。

私は思わず足を緩めた。




「どうした?」




斑が振り返る。




「...水の匂い」

「さっきからずっとしてる」

「そうだけど」




私は辺りを見回した。

ここまで来ると、母親が言っていたことが妙に現実味を帯びてくる。




_____『帰ってくると、水の匂いがすることがあった』

_____『服が少し湿っていた』

_____『靴に泥がついていた』




僚名はここに来ていた。

それも、一度や二度ではない。

私は自分の靴を見る。

まだ道を歩いただけだから、泥はほとんどついていない。

それなのに。

僚名は何度もこの場所へ来て、家に帰っていた。




「...斑」

「ん?」

「僚名は、ここで何をしてたんだろう」

「見れば何か分かるかもしれねぇ」

「本当に?」

「分からないかもしれない」

「...どっち」

「行ってみなきゃ分からねぇってことだ」




思わず小さく笑ってしまった。




「斑って、そういう言い方するよね」

「どういう?」

「答えを出さない」

「出せねぇものは出せねぇだろ」

「そうだけど」

「それに」




斑は少しだけこちらを見る。




「お前も今、答えを出したくないんじゃないか」

「え?」

「僚名が何をしてたのか、勝手に決めつけたくねぇんだろ」




私は黙った。

図星だった。

何かをしていた。

誰かと会っていた。

何かを探していた。

そう考えることはできる。

でも、それを事実みたいに扱ってしまったら、そこから先の調査も自分の想像に引っ張られてしまう。

私は小さく息を吐いた。




「...うん」

「なら、それでいい」




斑はそれだけ言った。

また前を向いて歩き始める。

その背中を見ながら、私は少しだけ肩の力を抜いた。

やがて、水路の先に大きな影が見えてきた。

石造りの壁。

その中央に設けられた大きな水門。

夕暮れの光を受けて、古びた金具が鈍く光っている。

近づくにつれて、水の音が大きくなる。

ごう、と低い音が地面を震わせるように響いていた。

私は立ち止まった。




「...あれ?」

「どうした」

「東の水門って...」




言葉が途切れた。

初めて見るはずだった。

来たことなどない。

少なくとも、そう思っている。

なのに。

目の前にある水門を見た瞬間、胸の奥が微かにざわめいた。

知らない場所なのに。

知らないはずなのに。

なぜか、どこか懐かしい。

水の匂い。

濡れた石。

古い木材。

遠くから聞こえる水音。

それらが、記憶の底に沈んでいた何かを、ほんの少しだけ揺らしている。




「...紗詠?」




斑の声がした。




「ううん...何でもない」




私は首を振った。

そして、水門を見つめる。

ここに。

僚名が何度も通っていた。

三ヶ月もの間。

誰にも理由を話さず。

何かを残すこともなく。

ただ、この場所へ来ていた。




「...調べよう」




私はそう言った。

斑が頷く。

二人で水門へ向かって歩き出した。

その時の私はまだ知らなかった。

この場所が。

死んだ僚名の足跡を追って辿り着いた場所が。

やがて、私がずっと知らなかった母の過去へと繋がっていくことを。




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