第二章 父と母 ep.46
母親の話によれば、僚名はここ数ヶ月、家に帰る時間が少しずつ遅くなっていたという。
仕事が忙しいのだと思っていた。
けれど、仕事先に確認すると、残業はほとんどしていない。
帰宅が遅い日は、仕事が終わった後にどこかへ寄っていたらしい。
「どこへ行っていたんでしょう」
私が尋ねると、母親は困ったように首を傾げた。
「それが...私にも分からないんです」
小さな家だった。
玄関を開けると、古い木の匂いがした。
窓際には鉢植えがいくつか並び、夕方の光が薄いカーテン越しに差し込んでいる。
その光の中で、母親の指が膝の上で小さく震えていた。
「最近、帰ってくると疲れているようだったんですけど...聞いても、何でもないって」
「普段と違うところはありましたか?」
「そうですね...」
しばらく考えてから、母親が言った。
「水の匂いがすることがありました」
私は顔を上げた。
「水?」
「えぇ」
母親は少し困ったように笑った。
「変なことを言ってると思うでしょう?」
「いえ」
「でも、本当にそうだったんです。雨の日でもないのに、服が少し湿っていたり、靴に泥がついていたり...」
私は手元の記録に目を落とす。
東の水門。
あの紙片が頭をよぎった。
「息子さんは、水路の近くへ行くことがありましたか?」
「それは...」
母親が少し考える。
「一度だけ、東の方へ行くと言っていたことがあります」
「東?」
「はい。何をしに行くのか聞いたら、ちょっと用事があるって」
胸の奥で、小さく何かが鳴った気がした。
東。
水門。
そして、遺体。
私は斑を見る。
斑も同じことを考えていたらしい。
視線が合った。
けれど、何も言わなかった。
母親は話を続ける。
「でも、それだけじゃないんです」
「他にも?」
「最近は、週に何度か同じ場所へ行っていたみたいで」
「同じ場所?」
「えぇ」
母親は立ち上がり、部屋の奥へ向かった。
しばらくして戻ってきた時、その手には一枚の小さな紙があった。
「これ、息子の部屋から見つかったんです」
紙には、いくつかの日付が並んでいた。
私はそれを受け取る。
四日。
八日。
十二日。
十七日。
二十一日。
どの日付にも、短い文字が添えられている。
『東の水門』
私は息を止めた。
「...これ」
「私には何のことか分からなくて」
母親は不安そうに私を見る。
「でも、同じ場所が何度も書いてあるでしょう?」
斑が紙を覗き込む。
「五回...」
「もっとあります」
母親が言った。
「これだけじゃなくて、息子の帳面にも同じ場所が書かれていました」
「帳面?」
「はい」
母親はさらに別の紙を持ってくる。
そこには、日付と時間だけが並んでいた。
十七時四十分。
十八時十五分。
十九時二分。
どれも仕事が終わった後の時間だった。
そして、その多くの日付が、先ほどの紙と重なっている。
私は紙を見つめたまま動けなかった。
一度なら偶然かもしれない。
二度なら、用事があっただけかもしれない。
けれど。
何度も。
何度も同じ場所へ通っている。
しかも、それを誰にも話していない。
「...東の水門で、何をしていたんでしょう」
私が呟くと、斑が答えた。
「それを調べる」
「うん」
私は紙を握り直した。
そこには何も書かれていない。
誰と会ったのか。
何を見たのか。
何を探していたのか。
なぜそこへ通っていたのか。
ただ、場所と日付だけ。
それでも。
人間が何度も同じ場所へ通っていたという事実は、それだけで十分に奇妙だった。
「お母さんには、東の水門に行く理由を話していなかったんですね」
「えぇ」
母親は俯いた。
「聞いても、仕事のことだと言っていました」
「仕事?」
「はい。帳簿の仕事ですから、何かの確認があるんだろうと思って...」
そこで母親の声が途切れた。
「まさか、こんなことになるなんて...」
私は何も言えなかった。
こういう時、どんな言葉をかければいいのか、まだ分からない。
大丈夫です、なんて言えるはずがない。
お気の毒に、という言葉も、あまりに軽い気がした。
だから私は、ただ紙をそっと机の上へ戻した。
その時だった。
紙の端に、小さな汚れがあることに気づいた。
黒っぽい。
土か、泥のように見える。
私は指で触れようとして、やめた。
「斑」
「ん?」
「これも、調べたほうがいいよね」
斑は紙を見た。
「触らない方がいい」
「うん」
「お母さん、この紙、少し預からせてもらってもよろしいですか?」
「はい...」
斑が紙を封に入れる。
私はその動きを見ながら、もう一度、母親の家を見渡した。
棚。
机。
古い時計。
壁にかけられた家族の写真。
どこにでもある、ごく普通の家だった。
その中で。
一人の人間だけが。
誰にも言わずに、同じ場所へ何度も通っていた。
なぜ。
何のために。
そして。
その場所で、何を見ていたのか。
家を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
私は歩きながら、斑に尋ねた。
「東の水門って、どんなところ?」
「古い水門だ」
「人は?」
「ほとんど来ない」
「じゃあ、どうしてそんな場所に...」
「それをこれから調べる」
斑はそう言って、歩く速度を少し緩めた。
私が追いつくのを待つように。
「ただ」
「ただ?」
「一つ気になる」
斑が前を向いたまま言った。
「僚名がそこへ行き始めた時期だ」
私は足を止めかけた。
「...いつ?」
「三ヶ月前」
「それが?」
斑は答えなかった。
代わりに、懐から先ほどの記録を取り出す。
そして、ある日付を指で示した。
「この日だ」
私はその日付を見る。
三ヶ月前。
まだ何も知らなかった頃のことだ。
そして。
その日付を見た瞬間。
なぜか、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
理由は分からない。
ただ。
その日付を、どこかで見たことがあるような気がした。
「...私、この日付...」
「知ってるのか?」
「分からない」
私は記憶を探った。
けれど、何も出てこない。
ただ、胸の奥に引っかかる。
まるで。
ずっと昔に聞いたことのある言葉を、突然どこかで見つけたような。
そんな感覚だった。
斑はそれ以上聞かなかった。
ただ、私の隣を歩いていた。
夕暮れの街は、何事もなかったように人々の声で満ちている。
店先から夕食の匂いが流れてくる。
子供達の笑い声が聞こえる。
馬車が石畳を踏む音がする。
いつもと変わらない日常。
その中で。
私たちだけが、一人の死者が残した足跡を追っていた。
東の水門。
そこに。
僚名が何度も通っていた理由がある。




