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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第二章 父と母 ep.45




僚名の身元が分かってから、二日が過ぎた。

その間、検死そのものに大きな進展はなかった。

死因はひとまず溺死として処理されたが、右手首に残された痕については所見として記録に残された。

それ以上のことは、今のところ分からない。

けれど、死体から何も分からないなら、生きていた時の彼を調べるしかない。

私はそう思っていた。






検死室の隅に置かれた机には、僚名に関する記録が何枚も並べられている。

出生地。

住所。

職場。

家族構成。

行方不明になった日時。

最後に目撃された場所。

一つずつ読んでいく。

二十四歳。

独身。

母親と二人暮らし。

街の商店で帳簿を担当。

特に目立った経歴はない。

借金もない。

犯罪歴もない。

周囲との大きな揉め事もない。






「...普通の人だ」






思わず呟くと、向かいに座っていた斑が顔を上げた。






「普通ってのが、一番調べにくいんだよ」

「どういう意味?」

「何もないからな」






斑は紙を一枚めくった。






「恨まれる理由も、逃げる理由も、死ぬ理由も、見つからねぇ」

「でも...死んだ」

「あぁ」






短い返事だった。

私はもう一度、僚名の記録を見る。

何度見ても、どこにでもいるような青年にしか見えない。

けれど。






人間は、生きている間に必ずどこかへ行く。




誰かと話す。




何かを買う。




何かを食べる。




誰かを好きになったり、嫌いになったりする。




紙に残っているのは、そのほんの一部だけだ。






だから私は、僚名の母親から話を聞くことにした。

検死室に残されていた記録だけでは、僚名という人間がどんな生活を送っていたのかまでは分からない。

死因を調べるために必要なのは、死体に残されたものだけではない。

その人間が最後にどこにいて、誰と会い、何をしていたのか。

そういう、生きていた頃の足跡もまた、死因を考えるための手掛かりになる。






「母親のところに行く」






私がそう言った時、斑は手元の記録から顔を上げた。






「一人でか?」

「うん」

「何でだ」

「何でって...」






私は少し考えてから答えた。






「父さんが遺族に話すって言ってたけど、私も少し聞いておきたいと思って」

「それなら俺も行く」






あまりにも自然に言われたので、私は一瞬、返事を忘れた。






「...斑も?」

「何だ、その顔」

「いや、仕事は?」

「今のところ急ぎの検死はねぇ」






そう言って、斑は机の上に書かれた僚名の記録をまとめた。






「それに、お前一人で遺族のところへ行かせるわけにもいかねぇだろ」

「でも、私はただ話を聞くだけだよ」

「だからだ」






斑は紙の端を揃えながら言った。






「死んだばかりの人間の家族だ。何を聞いていいかも、どこまで聞いていいかも分からねぇだろ」

「...それくらい分かるよ」

「そうか?」

「分かる」

「ならいい」






あっさり引き下がられて、私は少し拍子抜けした。

だがそれでも斑は立ち上がり、外套を取る。






「行くぞ」

「うん」






私も記録を抱えて立ち上がった。

検死室を出ると、地下特有の冷たい空気が少しずつ薄れていった。

階段を上がるにつれて、外の音が近づいてくる。

人の声。

靴音。

遠くで誰かが荷車を引いている音。

最後の扉を開けた瞬間、昼の光が目に入り、私は思わず目を細めた。

地下に長くいたせいか、空がひどく明るく見えた。

雲はまだ厚いけれど、その切れ間から淡い光が差し込んでいた。






「僚名の家、どこ?」

「東の街だ」






斑が歩きながら答える。






「ここからなら二十分くらい」

「東...」






その言葉に、私は僚名の所持品で見つかった紙片を思い出した。






_____『東の水門』






胸の奥に、小さな引っ掛かりが生まれる。






「斑」

「ん?」

「僚名って、東の方に住んでたんだよね?」

「あぁ」

「じゃあ、家から東の水門までは?」

「歩けば三十分くらいだな」

「...結構あるね」

「あぁ」






斑は前を向いたまま歩いている。

私はその横に並びながら、記録を思い返した。

僚名は東の水路で見つかった。

所持品の中には、「東の水門」と書かれた紙があった。

それだけなら、偶然とも考えられる。

けれど。

もし僚名が、そこへ何度も通っていたのだとしたら。






「ねぇ、斑」

「今度は何だ」

「東の水門って、普段から人が行くような場所なの?」

「いや」

「じゃあ、僚名がそこへ行ってたとしたら、何か理由があるのかな」

「あるだろうな」

「何だと思う?」

「さぁな」

「...斑でも分からない?」

「俺を何だと思ってる」

「何でも知ってる人」

「買いかぶりすぎだ」






少しだけ笑った。

けれど、その笑いはすぐに消えた。

斑もまた、東の水門について考えているようだった。






「ただ」






しばらく歩いたところで、斑が言った。






「一回行っただけなら、そこまで気にしねぇ」

「うん」

「でも、何度も行ってたのなら話は別だ」

「...やっぱり、そう思う?」

「あぁ」






斑はそこで一度、私を見る。






「だから母親に聞く」

「僚名が家で何か話していなかったかってことか」

「そういうこと」






私は頷いた。






「でも」






斑が言葉を切る。






「母親に聞いて、もし何も知らなかったら?」

「その時は次を探す」

「次?」

「職場でも知り合いでも、よく行ってた店でも何でもいい」






斑は黙ったまま、私を見つめる。






「生きてた人間には、必ずどこかに足跡が残る」






足跡。

死体には、身体に残された痕跡がある。

生きている人間には、行動が残る。

どちらも、その人間が確かにそこにいた証なのかもしれない。






「...検死って、死んだ後だけを見る仕事じゃないんだね」






何気なく呟くと、斑がこちらを見た。






「お前が母親に話を聞きに行くと言ったのは、そういう意図なのか?」






_____『一度決めたら、最後まで見ようとする人だった』






斑の、母さんに対する言葉が頭の中で反響する。

母さんの文献を調べ始めてから。

斑のあの言葉を聞いてから。

それはつまり、こういうことも含まれた言葉だったのかもしれないと考えるようになった。

斑は少し笑った。






「...似てきたな。お前の母さんに」






母さん。

その名前が出ただけで、胸の奥が少しだけ揺れた。

けれど、斑はそれ以上何も言わなかった。

私も何も言わない。

しばらく二人で歩く。

やがて、住宅の並ぶ静かな通りへ入った。

道幅が狭くなり、木の塀が続いている。

斑が一軒の家の前で足を止めた。






「ここだ」






私は顔を上げた。

古い木造の家だった。

玄関脇には小さな鉢植えが並んでいて、水やりをしたのだろう。

濡れた葉が光を受けている。

どこにでもある、ごく普通の家。

ここで数日前まで、一人の青年が母親と暮らしていた。

そして今は。

もう、帰ってこない。

私は小さく息を吸った。






「...行こう」






斑が頷く。

玄関の前に立ち、斑が戸を叩いた。

しばらくして、家の中から足音が聞こえる。

ゆっくりと近づいてくる足音。

やがて戸が開いた。

現れたのは五十代くらいの女性だった。

目元には、眠れていないのだろうと思わせる薄い腫れが残っている。






「...どちら様でしょうか」






斑が身分を示した。






「宮城の検死棟の者です。数日前見つかった僚名さんのことで、少しお話を伺いたくて」






女性の顔がわずかに強張った。






「...息子の」

「はい」

「何か分かったんでしょうか」






私は一瞬、答えに詰まった。

斑が静かに答える。






「身元は確認できました。ただ、死因についてはまだ調べているところです」






女性は唇を結んだ。

その目に、ほんの少しだけ期待が浮かび、それからすぐに沈んだ。






「...そうですか」

「少しだけ、お時間をいただけますか」






女性は黙って私たちを見る。

やがて、小さく頷いた。






「どうぞ」






私たちは家の中へ入った。

玄関をくぐった瞬間、古い木と温かい茶のような匂いがした。

その匂いが妙に家庭的で。

それがかえって胸に刺さった。

ここには、数日前まで僚名が帰ってきていた。




靴を脱いで。




「ただいま」と言って。




母親と話して。




食事をして。




眠って。




また朝になれば出ていった。






そんな当たり前の日々が、もう戻ってこない。

私はそのことを考えながら、斑の後ろについて居間へ入った。




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