第二章 父と母 ep.44
昼を少し過ぎた頃、身元について一つの情報が入った。
宮城の記録係から連絡があり、行方不明者の届出と照合したところ、該当する人物が一人見つかったらしい。
名前は、僚明。
二十四歳。
宮城から少し離れた街に住んでいた。
仕事は、街の小さな商店で帳簿をつけていたという。
「家族は?」
私が尋ねると、斑が記録を確認した。
「母親と二人暮らしだったらしい」
「お母さんがいるんだ」
「じゃあ、身元確認は...」
「もう済んでる」
斑の声が少し低くなる。
私は何も言えなかった。
身元が分かったということは、あの遺体がただの「身元不明の男」ではなくなったということだ。
僚明
二十四歳。
母親と二人で暮らしていた。
一昨日まで生きていた人間。
そして今は。
検死台の上にいる。
名前が分かるだけで、死体が急に近くなったような気がした。
私は記録へ、その名前を書いた。
一文字ずつ。
その名前を紙に残す。
筆先が紙を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
「遺族には?」
「俺が話す」
「うん」
私はそれ以上何も言わなかった。
その日の検死は、夕方近くまで続いた。
死因については、私の中ではまだ確定できない。
ただし、水路で発見されたことだけを理由に溺死とするのは危険だった。
肺の状態。
胃の内容物。
皮膚の状態。
死後変化。
そして、身体に残されたいくつかの小さな傷。
どれも単独では決定的ではない。
それでも。
一つずつ積み重ねていけば。
この人が最後にどこにいて。
何をされて。
どうやって死んだのか。
少しずつ見えてくるかもしれない。
私は最後に、手首の痕をもう一度記録した。
細い。
赤黒い。
一定の幅を持った痕。
そのすぐ近くには、ごく小さな擦過傷がいくつかある。
私はそれを見ながら。
なぜか、母さんのことを考えていた。
母さんなら、この傷を見て、何を思っただろう。
そんな考えが浮かんだ自分に、少し驚いた。
私は以前なら、母さんを事件とは結びつけようとはしなかっただろう。
けれど最近は、何を見ても母さんの姿がどこかに重なる。
それが少し怖い。
そして、同じくらいに。
もっと知りたいと思ってしまう。
「紗詠」
父さんに呼ばれて、顔を上げる。
「今日はここまでだ」
「うん」
私は記録をまとめる。
紙を揃え、端を合わせる。
その時、一枚だけ机から少しずれている紙が目に入った。
僚明の所持品について書かれた記録だった。
財布なし。
身分証なし。
金銭、少額。
鍵、一つ。
そして。
最後の項目。
小さな紙片、一枚。
私は手を止めた。
「...紙?」
「何だ?」
「所持品に、紙があったみたい」
斑が記録を覗き込む。
「そういや、預かり物の中にあったな」
「どんな紙?」
「...そんな物が気になるのか?」
「うん」
「...まだ見てねぇ」
「見ていいかな?」
「身元も出たし、確認してもいいんじゃないか?」
斑が立ち上がる。
私はその後ろについていく。
検死室の隅に置かれた小さな保管箱。
中には、僚明の身につけていた物がまとめられていた。
鍵。
いくつかの小銭。
そして。
薄く折り畳まれた紙。
斑が手袋をしたまま、それを取り出した。
「...これか」
紙は古く、端が少し擦れている。
開く。
中には、文字が一つ。
それだけだった。
_____『東の水門』
私は息を止めた。
「...東の水門?」
斑が呟く。
父さんも、その文字を見る。
誰も何も言わなかった。
けれど、その小さな紙片を前にした瞬間、なぜか私は、この事件がただの水路での事故ではないような気がした。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
ただ。
一人の死者が残した、たった四文字の言葉。
『東の水門』。
それだけが、静かな検死室の中で、妙に鮮明に残っていた。




