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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第二章 父と母 ep.43



翌日、もう雨は止んでいた。

検死室には、湿った匂いがなくなっていた。

代わりに鼻を満たすのは、消毒液と冷たい水、それから長く使われてきた器具に染みついた金属の匂いで、いつもなら慣れているはずのその空気が、今日は妙に重たく感じられた。






検死台の上には、昨夜の遺体が横たわっている。

二十代前半と見られる若い男だった。

東側の水路で発見され、発見時には身体の大部分が水に浸かっていたという。

身元はまだ分かっていない。

父さんは何も言わず、遺体の顔を確認し、それから胸元へ視線を落とした。

私は少し離れたところに立ち、記録用の紙を手元に置く。






「...水を飲んだ跡はある?」

「ある」






父さんは短く答えた。






「肺にも水が入っている」

「じゃあ、溺死?」






そう尋ねると、父さんは一度だけこちらを見た。






「そう書く」






その言葉に、胸の奥がわずかに引っかかった。






「...そう書く?」

「他に何がある」






父さんは淡々と答えた。






「水路で見つかって、水を吸っている。死因は溺死でいい」

「でも」






私は遺体の手首を見た。

右手首に、細い赤黒い痕が残っている。






「これ、掴まれた痕じゃない?」






父さんの手が止まった。

ほんの一瞬だった。

けれど、確かに止まった。






「そう見えるか」

「うん」

「なら、そういう所見を書いておけ」

「死因には関係ないの?」

「分からん」

「...分からないなら、溺死って決めていいの?」






父さんは答えなかった。

代わりに遺体の腕を持ち上げ、手首の痕を確認する。

その横顔は、何を考えているのか分からないほど静かだった。

やがて父さんは腕を戻し、記録用紙をこちらへ寄せた。






「紗詠」

「うん」

「死因の欄」






私は筆を持った。

父さんが言う。






「溺死」






筆先が紙の上で止まった。






「...本当に?」






父さんは私を見た。






「何だ」

「この痕があるのに?」

「痕があるから何だ」






その声音には、苛立ちが混じっていた。






「痕があることと、溺死であることは両立する」

「でも、誰かに掴まれてから水に落とされた可能性も_____」

「可能性ならいくらでもある」






父さんは私の言葉を遮った。






「落ちた時にどこかにぶつけたのかもしれん。水路に入る前に転んだのかもしれん。誰かに掴まれたのかもしれん。そんなものを一つずつ全部書いていたら、記録にならん」

「...じゃあ、何を書くの?」

「死んだ理由だ」






父さんは遺体を見る。






「水を吸って死んだ。それが今分かっていることだ」






その言葉を聞いて、私は黙った。

違う。

そうじゃない。

頭の中では、そう思っている。

父さんは”分かっていること”だけを言っているのではない。

”分かっていても、書かないことがある”。

私はそれを知っている。






昔、河で見つかった遺体を見た時もそうだった。

私が溺死とは限らないと言った時、父さんは否定しなかった。

ただ、記録には「溺死」と書いた。

そして提出箱に入れた。

あの時と同じだ。







父さんは、死体を見ていないわけではない。

むしろ、見ている。

見た上で。

書かない。






私は手首の痕をもう一度見た。

細い赤黒い痕。

その周囲には、わずかに皮膚が擦れたような痕もある。

水路でできたものなのか。

誰かに掴まれたものなのか。

それとも、別の何かなのか。

まだ分からない。

けれど。




分からないことと、存在しないことは違う。




そのことだけは、今の私には分かった。






「...分かった」






私は筆を紙に置いた。

「溺死」。

文字を書く。




一画。




一画。




筆先が紙を擦る音が、やけに大きく聞こえた。

書き終えて顔を上げると、父さんはもう次の確認に移っていた。

何もなかったように。

いつも通りに。

けれど私は、以前とは違う目で父さんを見ていた。

少し前なら、父さんのやり方を真っ向から否定していた。

けれど今は。




父さんが何を見ているのか。




何も見なかったことにしているのか。




それが少しずつ気になり始めている。

そして。

その理由を知りたいと思う自分がいる。

母さんのことを調べ始めてから、私は父さんの背中を見るたびに、以前とは違うものを感じるようになっていた。




何かを知っている背中。




何かを隠している背中。




それでも私は、もう父さんを追いかけようとは思わなかった。

問い詰めても、きっと答えは返ってこない。

それはもう分かった。

だから。

今はただ。

見ておこうと思った。




父さんが何を見て。




何を記録して。




何を記録しないのか。




それを、自分の目で。




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