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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第二章 父と母 ep.42




その朝は、雨だった。

細い雨が、夜が明けても止まなかった。

宮城の屋根を打つ雨音は、遠くから聞くと柔らかなものだった。

けれど、検死棟の地下まで降りてくると、その音はほとんど聞こえてこない。

厚い石壁と鉄の扉が、外の世界を切り離している。

地下へ続く階段を下りる。

一段。

また一段。

靴底が石を踏むたび、湿った音がした。

私は父さんの少し後ろを歩いていた。






「今日は何件?」

「一件だ」

「一件だけ?」

「あぁ」






父さんは短く答えた。

朝から雨の日は、検死棟の空気まで少し重く感じる。

湿気を含んだ石の匂い。

古い木材の匂い。

それから、消毒液の鼻を刺すような匂い。

いつもと変わらない。

なのに。

今日は何故か、妙に静かだった。

検死棟の廊下には、まだ人が少ない。

遠くで金属の器具が触れ合う音がする。

微かな話し声。

足音。

それらが、石壁に反響している。






父さんは何も言わずに歩いて行く。

私はその背中を見ながら、昨日のことを思い出していた。

母さんの記録。

三人の名前。

父さん。

母さん。

斑。

そして、






『無理に知ろうとするなよ』






斑の言葉。

あれから一晩経っても、頭の隅に残っていた。






「...紗詠」

「え?」






父さんが足を止めていた。






「入るぞ」

「あ、ごめん」






私は慌てて顔を上げた。

検死室の前。

父さんが扉を開ける。

冷たい空気が流れてきた。

私は小さく息を吸って、中へ入った。

そこには。

すでに遺体が一体、安置されていた。

白い布が胸元までかけられていた。

その顔は見えない。

台の上に置かれた身体は、思っていたよりも小さかった。






「...若い?」






私が呟く。

父さんが頷いた。






「二十代前半だそうだ」

「若いね」

「あぁ」






父さんは記録を手に取った。






「名前は?」

「まだ身元確認中だ」

「身元不明?」

「あぁ。身分を確認するものはなかったらしい」






私は遺体を見つめる。

白い布の下にある身体は、静かだった。

生きている人間なら、呼吸に合わせて胸が上下する。

指先が動く。

目を閉じていても、そこには微かな生命の気配がある。

けれど。

死体にはない。

何もない。

ただ、そこにある。

それだけ。






私は検死台の脇に立った。

父さんが手袋をはめる。

ぱち、と小さな音がした。

その音を聞くと、いつもの検死が始まるのだと身体が覚えていた。






「発見場所は?」

「宮城から少し離れた東側の水路だ」

「水路...」






私は呟く。






「溺死?」

「まだ分からん」






父さんは布の端に手をかけた。






「発見された時は、水に浸かっていた状態だった」

「じゃあ、溺れて...」

「決めつけるな」






すぐに返された。






「...うん」






私は口を閉じた。

父さんは遺体を見る。

顔。

首。

肩。

腕。

一つずつ。

いつも通り。

けれど、その時。

父さんの手が止まった。

ほんの一瞬だった。

私はそれを見逃さなかった。






「父さん?」

「...」






返事がない。

父さんは遺体の右手を持ち上げた。

指先を確認する。

爪の間。

指の付け根。

掌。

そして、手首。






「どうしたの?」

「...何でもない」






そう言った父さんの声は、いつもより低かった。

私はもう一度、遺体を見る。

何か変だ。

でも。

何が変なのか分からない。

父さんはそのまま検死を続けた。

身体に残された傷。

皮膚の色。

水に浸かっていた時間。

死後変化。

一つずつ確認していく。

私は隣で記録を取る。

紙に筆を走らせる音だけが、検死室に響いていた。






さら。




さら。




さら。




やがて、父さんが言った。






「...この傷」

「うん?」

「見ろ」






私は身体を近づける。

遺体の手首。

そこには、細く赤黒い痕が残っていた。

強く締め付けられたような。

けれど。

縄の跡にしては、妙に細い。

私は眉を寄せる。






「縛られてた?」

「可能性はある」






父さんは答える。






「だが、これだけじゃ判断できない」

「水路で見つかったんだよね」

「あぁ」

「誰かに襲われたとか」

「それも、まだ分からん」






父さんは傷をじっと見つめていた。

その目が、いつもより鋭い。

私はふと。

昨日、斑と話したことを思い出した。

母さんは、小さな傷も見逃さなかったという。

一度気になったら、納得するまで見る人だった。

私は無意識に、もう一度遺体の手首を見た。

赤黒い痕。

水に濡れていた身体。

身元不明。

そして。

何かに強く掴まれたような手首。

まだ、何も分からない。

ただの事故かもしれない。

事件かもしれない。

あるいは。

本当に誰かに殺されたのかもしれない。

私は筆を握り直した。






「...父さん」

「なんだ」

「これ」






私は手首を指した。






「ちゃんと残しておいた方がいいよね」






父さんが私を見る。

ほんの一瞬、その目に何かが浮かんだ。

驚きなのか。

それとも、別のものなのか。

私には分からなかった。






「...あぁ」






父さんは静かに答えた。






「そうしろ」






私は紙に目を落とす。

筆先を置く。

一文字ずつ。

見たものを。

分かったことだけを。

書いていく。

その時、検死室の扉が開いた。






「すいません」






斑だった。

雨に濡れた外套を脱ぎながら、斑が入ってくる。






「遅れました」

「構わん」

「身元は?」

「まだだ」






斑は検死台へ近づいた。

そして、遺体を見る。






「...若いな」

「二十代前半らしい」

「そうか」






斑は少し黙った。

それから、遺体の手首へ目を向ける。






「これ...」






斑の声が止まった。

私は顔を上げる。






「何?」






斑は答えない。

ただ、遺体の手首を見つめていた。

父さんも。

斑も。

何かを考えている。

けれど、私はまだ。

その理由を知らなかった。

雨の音さえ届かない場所で。

一人の死体だけが、静かに横たわっている。

そして私は。

まだ知らなかった。






この遺体が。




母さんの過去と。




初めて繋がることになるとは。




この時はまだ。

誰も知らなかった。




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