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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第二章 父と母 ep.41




雨の匂いがしていた。

地下にある検死棟まで、外の雨音はほとんど届かない。

それでも、地上から運ばれてくる湿った空気が、わずかに廊下へ流れ込んでいる。

古い石壁は水分を含んで、いつもより冷たかった。






その検死棟の中の記録室。

国家が重要だと決めた検死記録は中央に吸い上げられていくが、それ以外のものはほとんどここに、過去の検死役達が残してきている。






私は机の前に座り、古い記憶の束を一つずつ整理していた。

紙を捲るたび、乾いた音がする。




さらり。




さらり。




長い年月を経た紙は、今使われているものより硬く、指先に少しざらついた感触が残った。

古い墨の匂いもする。

少し酸っぱいような、乾いた匂い。

何度も開かれて、何度も閉じられた記録だけが持つ匂いだった。






「...古いな」






斑が隣で呟いた。






「うん」






私は紙の束を持ち上げる。






「父さんが整理してたやつかな」

「多分そうだ」

「多分?」

「全部を覚えてるわけじゃねぇよ」






斑はそう言いながら、私の手元を覗き込んだ。

私はまた一枚、頁を捲る。

死者の名前。

年齢。

発見場所。

身体に残された外傷。

死後変化。

死因。

どれも、見慣れた項目だった。

検死記録というものは、どれだけ年月が経っても大きくは変わらない。

死んだ人間の身体に残されたものを拾い上げて。

見たものを書き残す。

ただ、それだけ。

…のはずだった。

一枚の紙をめくった時。

指が止まった。






「...あ」






見覚えのある文字があった。

細く。

少し右に傾いていて。

私は、すぐに分かった。






「母さんの字」






斑が顔を上げた。






「どれ」

「ここ」






私は紙の一箇所を指で示す。

斑がこちらへ身を寄せた。

肩が近くなる。

そのまま記録を覗き込んで。






「あぁ」






と、小さく言った。






「懐かしいな」






その声は、いつもの斑より少しだけ静かだった。

私は何となく、もう一度その文字を見る。

母さんの字。

家にいた頃から、何度も見てきた。

私がまだ小さかった頃。

母さんが買い物のメモを書いていた頃。

手紙を書いていた時。

私の名前を書いてくれた時。

何度も見た字。

でも、ここにあるのは。

家で見ていた文字とは、少し違って見えた。

母さんが、検死役として書いた文字。

そのことが、今更ながら不思議だった。

私は記録の下の方へ視線を落とした。

そこに、父さんの名前がある。

そして、もう一つ。






「...斑の名前もある」

「そうだな」

「この頃って」






私は少し考えた。






「斑が補佐を始めた頃だよね?」

「あぁ」

「十三歳くらい?」

「そうなるな」






私は少し笑った。






「私が九歳の頃か」

「そうだな」






九歳。

その言葉を口にすると、昔の景色がほんの少しだけ蘇った。

まだ今より、ずっと背が低かった。

家の廊下を走って、母さんに怒られて、父さんにはもっと怒られて。

そして、斑が家に来ると、すぐにその袖を引っ張っていた。

斑は昔から、よく家に来ていた。

私の遊び相手だった。

本を読んでいると邪魔をしてきたり。

庭に出れば付き合ってくれたり。

私が転べば、呆れた顔をしながら手を差し出してくれた。

斑が少し年上だったから。

私はいつの間にか、兄のように思っていた。

だから。

斑が検死役の補佐になったと聞いた時も。

「へぇ」くらいにしか思わなかった。

仕事をしている斑を見たのも、その頃は一度だけだった。

父さんに連れられて、検死室に入った時。

あの日のことは、今でも覚えている。

地下へ降りる階段は薄暗くて、壁に触れるとひやりと冷たかった。

検死室の扉を開けた瞬間、鼻の奥を刺すような薬品と水の混じった匂いがした。

家とは違う。

斑も違って見えた。

いつものように私の相手をしてくれる兄のような人ではなく。

白い衣服を着て、父さんの隣で、黙々と器具を扱っていた。

「あれ、斑」。

そう声をかけたら、斑は振り返って、

「見に来たのか」と笑った。

その時の顔を、私は覚えている。

けれど、あの日。

斑が母さんとどんな仕事をしていたのか。

父さんと何を話していたのか。

そんなことまでは知らなかった。

私は記録へ目を戻した。






「...この頃から、母さんと一緒に仕事してたんだ」

「あぁ」






斑が答える。






「母さんと父さんと、三人で?」

「三人だけってわけじゃないけどな」

「うん」

「でも、同じ現場になることは多かった」

「そっか」






私は何枚か続けて頁をめくった。




一枚。




二枚。




三枚。




時々、母さんの名前がある。

その隣に父さん。

そして斑。

三つの名前が、同じ紙の上に並んでいる。

私は少しだけ不思議な気持ちになった。

三人が一緒に仕事をしていたこと自体は、知っている。

それなのに、こうして記録の中で見ると。

何だか別のことのように思えた。

私は、その現場を知らない。

母さんが検死役として立っていた場所を知らない。

父さんと仕事をしている時の母さんを知らない。

そして、その横にいた斑のことも。






「...ねぇ、斑」

「ん?」

「仕事の時の母さんって」






私は言葉を選びながら聞いた。






「どんな人だった?」






斑はすぐには答えなかった。

古い記録へ目を落としたまま、指先で紙の端をなぞっている。






「どんなって?」

「家にいる時と違った?」

「...まぁな」

「やっぱり?」

「あぁ」






私は少し身を乗り出した。






「どう違うの?」






斑はしばらく考えてから。






「仕事になると、細かかった」

「細かい?」

「かなりな」

「へぇ...」

「傷の位置とか、色とか」






斑は淡々と話す。






「死後変化も、何度も確認してた」

「そんなに?」

「一度気になったら、納得するまで見てた」






その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。

私は、そんな母さんを知らない。

私の中にいる母さんは。

もっと柔らかい人だった。

私が泣けば抱きしめてくれて。

熱を出せば額に手を当ててくれて。

私がくだらないことを話しても、笑って聞いてくれた。

そんな人。

でも、斑の言葉の中にいる母さんは。

鋭かった。

一つの傷も見逃さない。

小さな違和感を放っておかない。

死んだ人間の身体を。

何度でも見る。






「...母さん」






私は呟いた。






「そんな人だったんだ」

「お前が知らなかっただけだ」

「うん...」






斑はそれ以上言わなかった。

私は記録を捲る。

そこに残された母さんの字を見つめる。

細い筆跡。

規則正しく並んだ文字。

そこには。

私が知らない母さんがいた。






「斑」






私は顔を上げた。






「母さんが検死してるとこ、結構見てたんだよね」

「あぁ」

「どのくらい?」

「一年くらいだな」






一年。

その数字が、妙に頭に残った。

斑が補佐役になったのは十三歳。

母さんが亡くなったのは、私が十歳の時。

斑は十四歳。

つまり、たった一年。

斑が「仕事をしている母さん」を知っていた時間は。

それだけだった。

なのにその一年は。

母さんが亡くなる直前の一年だった。

私は少しだけ斑を見る。






「...一年しか、一緒に仕事してないんだ」

「そうだな」

「なのに、母さんのことよく覚えてるね」

「忘れるような人じゃなかったからな」






斑の声がほんの少しだけ柔らかくなった。

私は何も言わなかった。

忘れるような人じゃない。

その言葉が、胸の奥に引っかかった。

私は母さんを知っている。

でも、斑が言う「母さん」は。

私が知っている母さんとは、少し違う。






「...父さんとは?」

「ん?」

「仕事の時も、あんな感じだった?」

「あんな感じって?」

「家で見る時は、よく意見ぶつかってたから」






斑が、ふっと笑った。






「仕事でも似たようなもんだったよ」

「えっ」

「むしろ仕事の方が酷かったかもな」

「母さんが?」

「頑固だったな」

「父さんも相当だよ」

「だからぶつかるんだろ」

「なるほど...」






思わず笑った。

その時、斑も笑っていた。

ほんの一瞬。

けれど、その笑顔が消えた後、斑の目は。

どこか遠くを見ていた。

まるで。

今ではない時間を見ているように。

私は、その横顔を眺めた。

知らない。




私が知らない時間。




私が九歳だった頃。




斑が十三歳だった頃。




母さんがまだ生きていた頃。




検死棟の地下で、三人が一緒にいた時間。

私はそこにいなかった。

一度だけ見た。

あの冷たい部屋で、白い服を着た斑を見た。

でもあれは。

ほんの一瞬だった。

斑は、そこで一年間。

母さんと一緒に働いていた。






「...ねぇ」

「ん?」

「母さんと父さんって」






私は少しだけ迷った。






「仕事のことで、よく喧嘩してた?」

「まぁな」

「何について?」






斑は答えなかった。

その代わり。

机の上の記録へ目を落とす。






「色々だ」

「色々?」

「あぁ」

「...例えば?」

「覚えてねぇよ」






嘘だ。

そう思った。

多分、斑は覚えている。

でも、言わない。

私はそれ以上、追求しなかった。

代わりに、もう一度古い記録を見る。

そこには、三人の名前が並んでいる。

父さん。

母さん。

斑。

私はその名前を指先で追った。






「...変な感じ?」

「何がだ」

「こうして見ると」






私は少し笑った。






「三人が一緒に働いてたんだなって、改めて思う」

「働いてたよ」

「うん」

「お前も知ってただろ」

「知ってた」






私は頷く。






「でも」






そこで言葉が止まった。






「...何か、知らないことがある気がする」






斑が私を見る。

私は続けた。






「三人が一緒に働いてたことじゃなくて」






古い紙の匂いが鼻を掠める。

地下の冷たい空気が、頬を撫でる。






「その時、三人が何を話してたのか」






斑は黙った。






「何を考えたのか」






また、沈黙。






「何を調べてたのか」






その瞬間、斑の表情がほんのわずかに変わった。

本当に。

わずかだった。

眉が動いたわけでもない。

目を見開いたわけでもない。

ただ、呼吸が。

一度だけ止まったように見えた。

私はそれを見ていた。






「...斑?」

「何でもない」

「今、何か思った?」

「気のせいだ」

「また?」

「まただ」






斑はそう言って。

古い記録を閉じた。

ぱたん。

乾いた音が。

静かな記録室に響いた。






「今日はもういいだろ」

「え?」

「続きは明日にしろ」

「でも...」

「記録は逃げねぇよ」

「...そうだけど」






私は閉じられた記録を見る。

その表紙には、母さんの名前が残っていた。

私は、それ以上何も言わなかった。

けれど、帰り支度をしながら、頭の中にはさっきの光景が残っていた。

三人の名前。

同じ記録。

母さん。

父さん。

斑。

三人が一緒に働いていたことは。

私は知っている。

でも、それだけではない。

母さんが亡くなる前の一年。

斑は母さんの仕事を見ていた。

父さんは。

その一年を、もっと長く知っている。

そして。

二人とも。

母さんのことを話そうとすると、言葉を止める。

私は、ふと。

昔の母さんの顔を思い出した。




家の窓から差し込む夕方の光。




台所から漂ってくる、煮物の匂い。




母さんが私の髪を撫でてくれた手。




柔らかい声。




優しい笑顔。




それとは別に、今頭の中に浮かんでいる。




検死室に立つ母さん。




白い衣服。




冷たい明かり。




死体を見つめる目。




傷を確かめる指。




何かを記録する筆。




_____二人とも、同じ母さんなのに。








私の知らない顔がある。

そのことが、少し怖かった。

母さんは、私に何も話さなかった。

父さんも。

斑も。

何かを知っている。

けれど、誰も言わない。






私は記録室を出るため、扉に手をかけた。

冷たい金属の感触が、掌に伝わる。

その時、背後から斑の声がした。






「紗詠」

「ん?」






振り返る。

斑は机の前に立ったまま。

こちらを見ていた。






「...無理に知ろうとするなよ」






その言葉に、私は少しだけ眉を寄せた。






「どうして?」






斑は答えなかった。

ただ、いつものように。

少しだけ困ったような顔をしていた。

昔から変わらない顔。

私が何か危ないことをしようとすると、少し離れたところから、いつもそうやって見ていた。

だから、私は笑った。






「大丈夫」

「...何がだ」

「まだ何もしてないから」

「そういう問題じゃねぇよ」

「ふふ」






斑が小さく息を吐いた。






「...本当に、危なっかしいな」

「何が?」

「何でもない」






そう言って。

斑は視線を逸らした。

私は扉を開ける。

廊下から流れ込んできた空気は、検死室より少しだけ温かかった。

それでも胸の奥には、冷たいものが残っていた。

母さん。

父さん。

斑。

三人の間には。

私が知らない時間がある。

そして、その時間の中で。

母さんは何かを見ていた。

何かを調べていた。

その何かを、父さんも。斑も。

知っているのかもしれない。

私はまだ、その答えを知らない。

けれど初めて、はっきりと思った。






_____母さんの過去を知りたい。






母さんが、私の知らないところで。




何を見ていたのか。




何を追っていたのか。




そしてなぜ。




死ぬことになったのか。




その答えを、今度は。

自分の目で見つけたい。






記録室の扉が閉まる。

この検死棟に。

母さんの残した時間が。

まだ静かに眠っていた。




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