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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第二章 父と母 ep.40




検死室はしばらく静かだった。

私は何となく、肩に掛けられた斑の上着の袖を指先でつまんでいた。

少し大きい。

手を伸ばすと、袖口が指先まですっぽりと隠れる。






「...斑ってさ」

「ん?」

「昔からこういうことしてくれるよね」

「こういうことって?」

「寒いと上着貸してくれたり」

「風邪引かれると面倒だからな」

「それ、昔から言ってる」

「覚えてるなら何で聞いたんだよ」






私は少し笑った。

それからふと。

昨日の父さんとの会話を思い出した。

母さんのことを聞いた時、父さんはほとんど何も話してくれなかった。

でも、斑は違う。

少なくともそう思う。

私は机の向こうにいる斑を見た。






「ねぇ」

「何だ」

「母さんのこと、もう少し聞いてもいい?」






斑の手が止まった。

記録に目を落としたまま。






「...何を聞きたい」

「母さんが検死役だった頃のこと」

「仕事のことか」

「うん」

「言っとくが、俺は詠真さんみたいに隣にいたわけじゃない。その頃は、今のお前みたいに見習いみたいなもんだったからな。だから、別に全てを知ってるわけじゃない」

「うん」






私は少し考える。






「母さんって、どんな検死をしてたの?」

「普通だ」

「父さんと同じ?」

「似てる」

「でも、父さんが言ってた。母さんは勉強熱心だったって」

「...あぁ」

「斑も、そう思ってた?」

「思ってた」






即答だった。

私は少し驚いた。






「やっぱり?」

「あの人は、死体をよく見てた」

「...よく見る?」

「普通の検死役よりな」






斑はそこで言葉を止めた。

私は身を乗り出した。






「どういう意味?」

「そのままの意味だ」

「もっと詳しく」

「...」






斑は答えない。

私は首を傾げた。






「母さん、何か変なことしてた?」

「変なことじゃない」

「じゃあ何?」






斑はしばらく黙っていた。

やがて、記録を閉じる。

ぱたん、と。

乾いた音がした。






「紗詠」

「うん」

「その話は」






斑が私を見る。

いつもの眠そうな目ではなかった。

静かで、真っ直ぐだった。






「俺から聞くことじゃない」






私は瞬きをした。






「...どうして?」

「”お前の”母さんのことだからだ」

「だから?」

「お前が知りたいなら、本人から聞くべきだった」






一瞬、意味が分からなかった。

私は苦笑する。






「...もう、本人に聞けないよ」

「あぁ」






斑の声が、ほんの少し低くなった。






「だからこそだ」






私は黙った。

検死室の奥で、水が一滴。

ぽたり、と落ちる音がした。

斑は視線を逸らさない。






「母親が何を考えていたか」

「...うん」

「何を見ていたか」

「うん」

「何を怖がってたか」

「...」

「それを知ってるのは、俺じゃない」

「でも、斑は知ってるんでしょ」






斑の眉が、わずかに動く。






「...何を?」

「母さんのこと」

「少しな」

「じゃあ教えてよ」






私はそう言った。

強い声ではなかった。

責めるつもりもない。

ただ。

知りたかった。

母さんがどんな人だったのか。

何をしていたのか。

何を考えていたのか。

私が知らない母さんを、少しでも。

斑は長い間、黙っていた。

そして。






「俺から話すことじゃねぇ」






もう一度。

今度は、はっきりと言った。






「...父さんも、話してくれないんだ」

「だろうな」

「斑も同じなんだ」

「あぁ」

「二人とも、母さんのことになると黙る」

「...」

「何で?」






斑は答えなかった。

私は少しだけ俯いた。






「私、何か知らないといけないことがあるのかな」






その言葉に、斑の表情が変わった。

ほんの一瞬。

けれど、今までで一番、はっきりと。






「そういう言い方をするな」

「え?」

「知らなきゃいけないんじゃない」






斑は静かに言った。






「知りたいから、知るんだ」

「...」

「誰かに言われたからでもない。俺たちが知ってるからでもない」






少しだけ間を置いて。






「お前が、自分で決めろ」






その言葉が、胸の奥に残った。

私は斑を見る。






「...じゃあ、知りたいって決めたら?」

「その時は」






斑はそこで言葉を切った。

視線を落とす。

何かを考えているようだった。






「その時は?」

「...俺も、できることはする」

「教えてくれる?」

「それは別だ」

「えぇ...」






思わず声が漏れた。

斑が少しだけ笑う。






「全部教えるとは言ってねぇ」

「ずるい」

「そうかもな」

「斑って、こういうところずるいよね」

「今さらだろ」






私は小さく笑った。

でも、笑いながらも。

胸の奥には別の感覚が残っていた。

斑は、母さんについて何かを知っている。

それはもう、確信だった。

ただ、斑はそれを私に隠して楽しんでいるわけではない。

むしろ。

何かを守るように、言葉を選んでいた。

それが誰なのか。

母さんなのか。

父さんなのか。

それとも、私なのか。

まだ分からなかった。






「...斑」

「ん?」

「じゃあ、一つだけ」

「何だ」

「母さんって」






私は少しだけ迷ってから、尋ねた。






「怖い人だった?」






斑は目を瞬いた。

意外な質問だったのかもしれない。

そしてほんの少しだけ、笑った。






「いや」

「...優しかった?」

「それも違うな」

「じゃあ、どっち?」






斑は窓の外へ目を向けた。

薄い陽の光が、検死室の床に伸びている。






「...強い人だった」

「強い?」

「あぁ」

「父さんより?」

「比べるもんじゃねぇよ」






そう言って、斑は少しだけ目を細めた。






「ただ...」

「うん」

「一度決めたら、最後まで見ようとする人だった」






その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がかすかに鳴った。

それは、母さんの残した本にあった書き込みを思い出したからだった。




死因。




傷。




水。




記録。




そして。






_____『同じものが、また出ている』






私は知らず知らずのうちに、指先を握っていた。






「...やっぱり、何か調べてたのかな」






呟く。

斑は答えない。

ただ、一度だけ私を見る。

その目に、ほんのわずかな痛みのようなものが浮かんだ。

でも、すぐに消えた。






「斑?」

「...さぁな」

「今、絶対何か知ってる顔だった」

「気のせいだ」

「またそれ」

「便利な言葉だろ」

「便利すぎるよ」






私は笑った。

斑も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

けれどその後、斑はもう何も言わなかった。

母さんについて、それ以上は何も。

私ももう聞かなかった。

聞いても、きっと斑は答えない。

そして、無理に答えさせることも違う気がした。

斑が言った。






『俺から聞くことじゃない』






その言葉が、なぜかずっと胸に残っていた。

母さんのことを知っているからこそ。

斑は話さない。

それならいつか。

私自身の目で確かめるしかない。

母さんが何を見て。

何を探して。

何を残したのか。

私は私のやり方で少しずつ知っていけばいい。

その時、斑が机の上の記録を取り上げた。






「...そろそろ戻るぞ」

「うん」






私も立ち上がる。

借りた上着を脱ごうとすると、






「そのままでいい」

「え?」

「まだ寒いだろ」

「でも...」

「返すのは帰る時でいい」

「...分かった」






私はまた袖を握った。

少しだけ、温かかった。

そして、斑は何でもないような顔で、先に歩き出した。

その背中を見ながら、私はふと思う。

昔からこの人は。

私が何かを知らない時、いつも少しだけ先にいた。

けれど決して。

無理に引っ張ってはいかなかった。

ただ、私が追いつくまで。

そこにいる。

そんな人だった。




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