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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第二章 父と母 ep.39




翌日、検死室の扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。

鼻の奥に残る、独特の匂い。

薬品。

古い木。

そして、どこかに染みついた死の匂い。

久しぶりだった。

ほんの数日、離れていただけなのに。

ずいぶん長くここへ来ていなかったような気がした。






私は入り口に立ったまま、しばらく中を見ていた。

机。

器具。

記録棚。

窓から差し込む白い光。

どれも変わっていない。

けれど。

自分だけが、少し変わってしまったような気がした。






「...来たか」






声がした。

奥の机に、斑が座っていた。

こちらを見ている。

相変わらず、眠そうな目。

無造作な髪。

机の上にはいくつかの記録が積まれている。






「久しぶり」






私が言うと、斑は小さく息を吐いた。






「そうだな」






それだけ。

けれど。

視線が私の顔から足元まで、一度だけ動いた。

まるで、本当に戻ってきたのか確かめるように。






「...何?」

「別に」

「今、見たでしょ」

「見てねぇよ」

「見た」

「気のせいだ」






いつもの調子だった。

私は少し笑った。

このやり取りも、久しぶりだった。






「父さんは?」

「さぁ。宮城じゃないか?」

「宮城?」

「あの死体が、宮城扱いになってから、よくそっちに行くようになった」






”あの死体”...。

街で見つかった、河灯の遺体のことだ。






「そう...。...最近の検死って、どうだった?」






そう聞くと、斑は少しだけ眉を上げた。






「急に仕事の話か」

「うん」

「珍しいな」

「私だって検死役の娘だから」

「それは知ってる」






斑は記録を一枚捲った。






「最近は大した案件はない。病死が二件、事故が一件。あとは老人の自然死だ」

「父さんは?」

「何がだ」

「...どんな感じだった?」






斑の指が、紙の上で止まった。






「...いつも通りだ」

「本当に?」

「あぁ」






斑はそう答えてから、少し考えるように黙った。






「ただ」

「ただ?」

「少し疲れているようには見えた」






私は黙った。






「仕事が忙しかった?」

「それもあるだろうな」

「他には?」






斑は答えなかった。

私は机の端に手を置いた。

冷たい。

木の表面が、少しざらついている。






「...父さん、最近ちょっと変なんだ。宮城に、行ってるからなのかな」

「知ってる」

「え?」

「お前が気づくより前からな」






私は顔を上げた。

斑は何でもないように記録を眺めている。






「何かあったの?」

「知らねぇよ」

「本当に?」

「本当に」






その言い方はいつもの斑だった。

でも、私は少しだけ違和感を覚えた。

斑は何かを知っている時、いつも完全には嘘をつかない。

ただ、言わない。

それだけだ。






「...そっか」






私はそれ以上聞かなかった。

しばらく、検死室の中に紙を捲る音だけが響いた。

さら。

さら。

窓の外では風が鳴っている。

冬の終わりのような冷たい風だった。

私は久しぶりに見る検死室を、もう一度見渡した。






「ねぇ」

「ん?」

「私が来なかった間、父さんと二人で仕事してたんだよね」

「あぁ」

「...どうだった?」

「普通だ」

「それしか言わないね」

「普通だったからな」






私は少し笑った。






「そっか」






そして、ふと。

昨日の夜のことを思い出した。

母さんの話。

父さんの顔。

母さんについて聞いた時だけ、ほんの少し変わった声。

私は無意識に、指先を握った。






「斑」

「ん?」

「母さんってさ」






その瞬間。

斑の目が、ほんの少しだけ動いた。

私は気づいた。

でも、気づかなかったふりをした。






「...どんな人だった?」






斑はすぐには答えなかった。

窓の外を見る。

薄い光だが、その横顔に落ちている。






「急だな」

「昨日、父さんにも聞いたから」

「そうか」

「母さんのこと、ちょっと知りたくなって」






斑は黙った。






「何か覚えてる?」

「...色々な。とはいえ、俺もお前ほどではないが幼かったからな」

「じゃあ、覚えてることでいいから教えてよ」

「嫌だ」

「なんで」

「お前が知る必要はない」






その言葉に、胸の奥が少しだけざらついた。

父さんと同じだった。

話せない。

ではなく、話さない。






「父さんも同じこと言った」

「だろうな」

「...斑も、母さんのこと知ってるんだ」






斑は答えなかった。

それが。

答えだった。

私は彼の顔を見る。






「どのくらい?」

「昔から知ってる」

「父さんと一緒に働いてたから?」

「それもある」

「それも?」






斑が私を見る。

一瞬、何かを言いかけたように見えた。

けれど。






「...お前が小さい頃から見てた」

「私を?」

「あぁ」

「母さんじゃなくて?」

「両方だ」






その言葉が。

妙に静かに胸に落ちた。

私は少しだけ目を伏せた。

確かに、斑は昔からいた。

私が検死室の隅に座っていた時も。

私が雷に怯えていた時も。

何も分からず、死体から目を逸らせなかった時も。

いつも。

少し離れたところに斑がいた。






「...私、昔からそんなに危なっかしかった?」






聞いてみる。

斑は一瞬だけ目を細めた。






「危なっかしかった」

「そんな即答する?」

「本当のことだ」

「ひどい」

「今もだ」

「もっとひどい」






私が頬を膨らませると、斑は小さく笑った。

ほんの一瞬だった。

けれど。

その目はいつもより少し柔らかかった。






「最近来なかったのは」






斑が言った。






「何でだ?」






私は少し驚いた。






「...母さんのこと調べてたから」

「そうか」

「父さんには聞かないことにした」






斑は何も言わない。






「父さんを追いかけても、多分何も分からないと思って」

「...それで?」

「母さんの残したものを見てた」






斑の目がわずかに細くなった。






「何か見つけたか?」

「まだ何も」






私は首を振る。






「でも、母さんは何かを調べてたんじゃないかなって思ってる」






その瞬間、斑の表情が変わった。

本当にわずかだった。

目の奥が、ほんの少しだけ揺れた。

私は見逃さなかった。






「...何?」

「何がだ」

「今、変な顔した」

「してねぇよ」

「した」

「気のせいだ」






また、それだった。

でも、今度はいつもより少しだけ遅かった。

私は斑を見つめる。

斑も私を見る。

しばらく、どちらも喋らなかった。

やがて斑が、小さく息を吐いた。






「...お前は」

「うん」

「昔から、変なところだけよく見ているな」

「褒めてる?」

「褒めてねぇ」

「じゃあ何?」

「心配してる」






あまりにも自然に言われたので、私は一瞬返事ができなかった。






「...心配?」

「あぁ」






斑は椅子から立ち上がった。

そして私の前まで来る。

昔と同じように。

少しだけ高い位置から私を見る。






「最近来なかったのは、離れる気になったからと思った」

「...離れる?」

「検死から。...いや、全てから」






私は首を横に振った。






「そんなつもりないよ」

「そうか」

「ただ、母さんのことを知りたかっただけ」

「...そうか」






斑はそれ以上、何も言わなかった。

けれど、少しして私の肩に目を向けた。






「寒いのか?」

「え?」

「手」






言われて、自分の手を見る。

指先が少し赤くなっていた。






「...ちょっと」






斑は自分の上着を脱いだ。






「着ろ」

「いいよ」

「いいから」

「斑が寒いでしょ」

「俺は平気だ」






そう言って、私の肩に上着を掛ける。

布地から、ほんの少しだけ外の冷たい空気とは違う匂いがした。

乾いた木のような。

薬品のような。

検死室に長くいる人間の匂い。






「...ありがとう」

「風邪引かれたら面倒だからな」

「それだけ?」

「それだけだ」






そう言って、斑は机へ戻っていく。

私はその背中を見た。

昔から。

この背中を見ていた。

父さんの背中とは違う。

父さんはいつも前を歩いていた。

斑は。

少し後ろにいる。

振り返れば、そこにいる。

そんな人だった。

私は借りた上着の袖を握った。






「斑」

「何だ」

「...母さんのこと」






斑が振り返る。






「いつか、話してくれる?」






しばらく、斑は私を見ていた。

そして。






「...お前が、ちゃんと聞けるようになったらな」






そう言った。






「ちゃんと聞けるって?」

「知ったことを、抱えられるようになったら」

「私、そんなに弱く見える?」

「弱いとは言ってねぇ」






斑は少しだけ目を逸らした。






「ただ、お前は...」






言葉が途切れる。






「...何?」

「危なっかしい」

「またそれ?」

「見てて心配になる。昔から」






その言葉は。

あまりにも自然だった。

だから、私は何も考えずに笑った。






「じゃあ、ずっと見ててよ」

「...あぁ」






斑は、ほんの少しだけ目を細めた。






「せめて、傍にいて見といてやるよ」






その言葉が、検死室の静かな空気の中に落ちた。

私はただ。






「ありがとう」






と答えた。

けれど、斑はそれ以上何も言わなかった。

ただ机に戻り、いつものように記録を開く。

紙を捲る音がする。




さら。




さら。




その横顔は、いつもと変わらない。

けれど私は、一つだけ確信していた。

斑は母さんについて、何かを知っている。

父さんと同じように。

私にはまだ話せない何かを、抱えている。

それが何なのか、今は分からない。

ただ、昨日までとは違って私はもう、一人で母さんを探しているような気はしなかった。






検死室には、父さんがいる。

斑がいる。

そして、母さんが残したものがある。

まだ何も繋がっていない。

それでも少しずつ。

何かが動き始めている気がした。




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