第二章 父と母 ep.38
その日の夕食は、いつもと変わらなかった。
焼いた魚。
根菜の煮物。
味噌汁。
それから、昼のうちに作っておいた漬物。
父さんはいつものように、食べるのが早かった。
私がまだ魚の身を少しずつ箸でほぐしている間に、父さんはもう味噌汁を飲み終えている。
「...父さん」
「なんだ」
「魚、食べるの早過ぎない?」
父さんは箸を止めた。
「そうか?」
「そうだよ。私まだ半分も食べてない」
「お前が遅いんだ」
「猫舌なんだから仕方ないでしょ」
「魚は熱くないだろう」
「そういう問題じゃないの」
父さんが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑ったのかどうか分からないくらいの、小さな変化だった。
私はそれを見て、つられて笑った。
こういう会話は嫌いじゃない。
特別な話なんて何もしてない。
今日の食事がどうだったとか。
明日は雨が降るらしいとか。
検死が大変だったとか。
そんな、何でもない話。
母さんについて調べ始めてからも、父さんの間に流れるこういう時間まで変えたいとは思わなかった。
むしろ、変えたくなかった。
私は魚からいったん手を引き、味噌汁を一口飲んだ。
少し冷めていて、ちょうどいい。
そのまま何気なく言った。
「そういえばさ」
「なんだ」
「母さんって、魚好きだった?」
父さんの箸が。
ほんの一瞬だけ止まった。
私は気づかないふりをした。
「...魚?」
「うん」
焼き魚を見ながら言う。
「昔のこと思い出してたら、母さんって何が好きだったんだろうって」
父さんは魚を見た。
「普通だ」
「普通?」
「好き嫌いは少なかった」
「へぇ」
それだけ。
私は魚の骨を箸で避けながら、少し考える。
「じゃあ甘いものは?」
「それは好きだったな」
「え、本当?」
「あぁ」
「意外」
「何が意外なんだ」
「何となく。母さんって、甘いもの食べてたイメージがない」
もちろん、私は母さんのことをほとんど覚えていない。
だから、そのイメージだって曖昧だ。
本当は、母さんの顔すら、ところどころしか思い出せない。
ただ。
残っている記憶の中の母さんは、静かな人だった。
本を読んでいる。
紙に何かを書いている。
窓の外を眺めている。
そんな姿ばかりだった。
「何が好きだったの?」
「...羊羹」
「羊羹?」
「よく食べていた」
「へぇ...」
私は少し笑った。
「じゃあ今度買ってこようかな」
言ってから。
少しだけ変な気持ちになった。
もう、母さんは食べられないのに。
父さんも同じことを思ったのか。
返事はなかった。
私は箸を置く。
「...父さん」
「なんだ」
「母さんって、昔どんな人だった?」
今度は、箸は止まらなかった。
父さんは私の分の魚の身を取っている。
「普通の人だ」
「それさっきも聞いた」
「そうか」
「うん」
私は笑った。
「じゃあ、もうちょっと詳しく」
父さんは答えなかった。
私は急かさなかった。
少しして。
父さんは魚の骨を皿の端に置いた。
「よく笑う人だった」
「...へぇ」
意外だった。
「笑う?」
「あぁ」
「どんな時に?」
「くだらないことで笑っていた」
「例えば?」
「覚えてない」
「絶対覚えてるでしょ」
「昔のことだ」
そう言って、父さんは根菜の煮物に手を伸ばした。
話が終わった。
私は何となく分かった。
これ以上聞いても、多分答えは返ってこない。
だから聞かなかった。
その代わり、漬物を一切れ取る。
ぽり、と小さな音がした。
しばらく二人とも黙って食べた。
気まずいわけではない。
ただ、さっきまであった会話の温度が、少しだけ下がったような気がした。
私はその理由を考えながら、白いご飯を口に運ぶ。
そして。
また何気なく言った。
「母さんって、検死の仕事してたの?」
父さんの手が止まった。
今度は。
はっきり分かった。
ほんの一瞬、父さんの指が箸を握ったまま固まった。
けれど、すぐに動き出す。
「していた」
「やっぱり?」
「あぁ」
「どんな仕事してたの?」
「検死役だ」
「それは知ってるけど」
私は笑った。
「母さんも父さんと同じだったんだよね」
「...そうだ」
「じゃあ、父さんが教えたの?」
「何をだ」
「検死」
父さんは答えなかった。
私は味噌汁の椀を両手で持った。
まだほんのり温かい。
指先にじんわり熱が伝わる。
「母さんって、父さんより詳しかったの?」
その瞬間、父さんが顔を上げた。
「...どうしてそう思う」
声が少し低かった。
「え?」
「母さんのことを、そう思った理由だ」
私は少し考えた。
頭の中で、言葉を選ぶ。
そして、正直に答える。
「本を見てたら、結構いろいろ知ってたから」
父さんは何も言わない。
「死体のこととか、薬のこととか。水に入った時の身体の変化とか」
そこまで言うと、父さんはゆっくり箸を置いた。
かちゃり。
小さな音がした。
「...そうか」
それだけだった。
「うん」
私は父さんを見る。
「母さんって、勉強熱心だったんだね」
「...そうだな」
「昔から?」
「昔からだ」
「へぇ」
それだけ聞いて、私はご飯を食べた。
それ以上、聞かなかった。
聞かなくても分かったからだ。
父さんは、母さんの話をしたくない。
さっきまでとは違う。
魚の話。
甘いものの話。
昔の母さんの笑い方。
そこまでは話せる。
でも、母さんの仕事。
母さんが何を知っていたのか。
何を調べていたのか。
そこに触れた途端、父さんは口を閉ざす。
まるで、そこから先に進むことだけを、意識して避けているみたいに。
私は箸を動かしながら、父さんを横目で見た。
父さんは何事もなかったように食事を続けている。
「...父さん」
「ん?」
「母さんの話、嫌?」
父さんの動きが止まった。
今度は、ほんの少しだけ長かった。
「嫌なわけじゃない」
「じゃあ、何で?」
「何がだ」
「母さんのことになると、急に話さなくなる」
父さんは答えなかった。
私は慌てて付け足した。
「責めてるわけじゃないよ」
「分かっている」
「ただ、ちょっと気になっただけ」
父さんはしばらく黙っていた。
やがて。
「...昔のことを話しても、仕方がない」
そう言った。
「そうかな」
「死んだ人間のことだ」
その言葉だけが。
妙に冷たく聞こえた。
私は少しだけ目を伏せた。
「...そっか」
父さんは何も言わない。
私はそれ以上、母さんのことを聞かなかった。
本当に、聞くつもりはなかった。
父さんを追い詰めたいわけではない。
何かを吐かせたいわけでもない。
ただ。
母さんがどんな人だったのか。
少し知りたかっただけだ。
けれど。
その日の夜。
布団に入ってからも、父さんの最後の言葉が、何度も頭の中に残った。
_____『死んだ人間のことだ』
私は天井を見つめる。
暗い部屋の中で。
先程の父さんの横顔を思い出す。
母さんの話をした時、父さんは何度も言葉を止めた。
忘れた。
昔のことだ。
知らない。
覚えてない。
そうやって、少しずつ話を終わらせていった。
でも、本当に忘れている人の話し方とは、少し違う気がした。
忘れたのではなく。
話さないようにしている。
そんな感じだった。
私は布団の中で寝返りを打った。
窓の外では、夜の風が木の枝を揺らしている。
さら。
さら。
その音を聞きながら、私は目を閉じた。
父さんは、母さんについて何かを知っている。
私がまだ知らない何かを。
でも、もう父さんを追いかけるつもりはなかった。
無理に聞き出す必要もない。
それより。
私は自分で見つけたい。
母さんが残したものの中から。
母さんが生きていた時間の中から。
母さん自身の言葉で。
少しずつ。
母さんが、どんな人だったのかを知っていきたい。
だから、今はそれでいい。
そう思った。
けれど、眠りに落ちる直前。
ふと一つだけ、先程の父さんの表情が浮かんだ。
「母さんって、父さんより詳しかったの?」
あの問いをした瞬間。
父さんの目に浮かんだもの。
あれは驚きだったのか。
それとも_____。
恐れだったのか。
私はその答えを考えないまま、ゆっくりと眠りに落ちた。




