第二章 父と母 ep.37
母さんの死について調べた翌日から、私は母さんの残したものを見る目が少し変わった。
それまでは、何が書いてあるのか。
何が残っているのか。
ただ、それだけを見ていた。
けれど、今は違う。
_____何のために、これを残したんだろう。
そう考えるようになった。
机の上に、母さんの本を並べる。
検死についての本。
薬草の本。
毒物についての本。
古い医学書。
死後の身体について書かれたもの。
どれも一冊だけなら、何の不思議もない。
検死に関わる人物なら、持っていてもおかしくはない本だ。
けれど_____。
私は本の頁を捲る。
紙の擦れる音がする。
母さんの筆跡。
細い文字。
小さな書き込み。
丸。
線。
余白に書かれた短い言葉。
『この症状は死因と一致しない』
私は指を止めた。
「...これ」
以前にも見た。
けれど、その時は意味を深く考えなかった。
別の頁を開く。
『死後硬直の時間に注意』
さらに次。
『水中では変化が異なる』
また別の本。
『同じ症状でも原因が違う場合がある』
私は本を閉じた。
胸の奥が、少しざわついた。
これは、ただ勉強していた人の書き込みだろうか。
もちろん、そうかもしれない。
検死について詳しくなろうとしていた。
だから本を読んだ。
分からないことを調べた。
それだけ。
でも。
私は母さんの残した本を、一冊ずつ並べていった。
気づいたことがある。
母さんが印をつけている箇所には、ある共通点があった。
死因。
外傷。
水。
毒。
死後の変化。
身体に残る痕跡。
どれも、”死んだ人間に何が起きたのか”を知るためのものだった。
私は椅子に座った。
窓から入る風が、机の上の紙を少しだけ揺らす。
一枚が浮き上がり、ぱさりと落ちた。
私はそれを拾った。
以前見つけた、あの紙だった。
知らない街の名前。
その下に書かれた日付。
母さんが亡くなるより二年前。
私は紙を眺める。
そして、ふと思った。
「...この街で、何をしていたの?」
もちろん、答えはない。
私は紙の裏を見る。
何もない。
表を見る。
街の名前と日付だけ。
でも、その日付を見ているうちに、別の記憶が浮かんだ。
母さんは昔、家を空けることがあった。
幼かった私は、その理由を知らなかった。
「どこ行くの?」
そう聞いたことがある。
母さんは笑って、
「ちょっと、仕事」
そう答えた。
仕事。
当時の私は、それ以上聞かなかった。
父さんも。
何も言わなかった。
私は立ち上がった。
本棚の一番下から、古い箱を取り出す。
蓋を開ける。
中には、母さんの手紙。
何通か並べる。
日付を見る。
一通。
二通。
三通。
私は眉を寄せた。
手紙が書かれた日。
母さんが家を空けていた時期。
そして、あの街の名前が書かれていた紙の日付。
完全には一致しない。
でも、近い。
近すぎる。
偶然というには、少しだけ気になった。
私は紙を三枚並べた。
左に手紙。
真ん中に街の名前。
右に、検死についての本。
ばらばらだったものが。
ほんの少しだけ近づいた気がした。
母さんは検死について勉強していた。
母さんは知らない街へ行っていた。
母さんは誰かと手紙を交わしていた。
そして。
母さんの死については、記録に小さな違和感がある。
私はゆっくり息を吐いた。
「...もしかして」
声が小さくなる。
母さんは。
何かを調べていたのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間、心臓が一度だけ、強く鳴った。
_____ドクン。
私は自分でも驚いて、胸元に手を当てる。
ただの想像だ。
証拠なんてない。
何かを調べていたと決まったわけではない。
でも。
一度そう考えてしまうと。
今まで見ていたものが、違って見えた。
検死の本も。
手紙も。
街の名前も。
知らない人の名前も。
母さんが残した、小さな印も。
全部。
何かを探していた人間のものに見えてくる。
私は椅子に座り直した。
そして、母さんの本をもう一度開く。
今度は、ただ読むのではなく。
_____母さんは、何を探していたんだろう。
そう考えながら。
頁を捲った。
一枚。また一枚。
その時、本の途中に薄い紙が挟まっているのに気づいた。
取り出す。
紙は古い。
端が少し破れている。
そこには、いくつかの言葉が並んでいた。
死因。
死亡時刻。
傷。
水。
記録。
私は目を細めた。
そして、その一番下。
ほとんど読めないほど小さな文字を見つけた。
『同じものが、また出ている』
「...同じもの?」
私は呟いた。
何が。
どこで。
いつ。
母さんは何を見て、そう書いたのだろう。
その下には、何もなかった。
途中で書くのをやめたように。
そこで途切れている。
私は紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
もし。
母さんが本当に何かを調べていたのなら。
その「何か」は。
母さんの中では、きっと一つに繋がっていた。
死因。
傷。
水。
記録。
知らない街。
知らない人。
そして、”同じもの”。
けれど、私にはまだ、何一つ繋がらない。
私は紙を机の上に置いた。
外では鳥が鳴いている。
昼の光が窓を透かして、部屋の中に淡く差し込んでいた。
静かだった。
あまりにも静かで。
母さんが何年も前にここに座って、同じように紙を広げていたような気がした。
何かを考えて。
何かを書いて。
何かを探して。
私は目を閉じる。
すると、幼い頃の母さんの姿が浮かんだ。
私の髪を撫でる手。
柔らかな声。
笑った顔。
その母さんと、今目の前にある紙の文字を書いた母さんが、どうしても同じ人に思えなかった。
優しい母さん。
検死について調べていた母さん。
知らない土地へ行っていた母さん。
誰かと秘密めいた手紙を交わしていた母さん。
そして_____。
病死した母さん。
私はゆっくり目を開けた。
「...母さん」
初めて。
その名前に問いかけるように呼んだ。
何を探していたの。
誰を探していたの。
何を見つけたの。
そして。
見つけたものは_____。
母さんを死なせるほどのものだったの?
答えは返ってこない。
当たり前だ。
母さんはもういない。
だから。
私は紙を箱に戻す。
本も閉じる。
けれど、その日から。
私の中に、一つの疑問が残った。
母さんは、何かを知っていたのではない。
何かを探していたのではないか。
そして、もしそうなら。
母さんが探していたものは。
今もまだ、どこかに残っているのかもしれない。




