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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第二章 父と母 ep.36




母さんのものを調べ始めてから、一週間ほどが経った。

それでも。

母さんについて、分かったことは少なかった。

検死について詳しかった。

薬や毒についても、かなり勉強していた。

誰かと手紙を交わしていた。

知らない土地の名前を残していた。

何かを気にしていた。

何かを調べていた。

でも。

それが何なのかは、分からない。






私は母さんのものを一度、全部並べてみた。


机の上。


本。


手紙。


紙片。


髪飾り。


古い硝子瓶。


小さな日記。


どれも母さんが生きていた証拠だった。

けれど。

どれだけ眺めても、母さんの死に繋がるものは見つからなかった。






_____病気。






私はふと、その言葉を思い出した。

母さんは病気で亡くなった。

ずっとそう聞いていた。

私がまだ幼い頃、母さんは身体を悪くして。

しばらく寝込んで、そのまま亡くなった。

それが、私の知っている母さんの死だった。






私は椅子の背にもたれた。

窓の外では風が吹いている。

庭の木の葉が擦れ合い、さらさらと音を立てていた。






「...病気」






口に出してみる。

何となく。

その言葉が、今までより薄っぺらく聞こえた。

病気だった。

だから死んだ。

それ以上、考えたことがなかった。

でも。

今の私は、母さんが残したものを知っている。


死体について。


死後の変化について。


傷について。


毒について。


検死について。


そんな母さんが、自分自身の死については何も残していない。

それが少しだけ不自然だった。






私は立ち上がった。

母さんの箱の底を、もう一度探す。

布を一枚ずつ退ける。

本を持ち上げる。

手紙を確認する。

何もない。

やっぱり、何もない。

その時、ふと別のことを思い出した。

私は箱を閉じた。






そして、父さんの部屋へ向かった。

廊下を歩く。

昼間の家は静かだった。

父さんはまだ帰っていない。

今日は検死室か。

はたまた宮城か。

私は父さんの部屋の前で立ち止まった。

入っていいものか、一瞬迷う。

でも。

聞きたいことがあった。

戸を開ける。

中は薄暗かった。

窓は閉められていて、机の上には父さんが使っている筆と硯が置かれている。

私は机の前に立った。

父さんの部屋には、古い記録がいくつか保管されている。

仕事のもの。

古い帳簿。

その中に。

母さんの死について何か残っていないだろうか。






私は棚を見た。

一冊ずつ背表紙を指で追いながら確認する。


検死記録。


薬品記録。


死亡届。






_____死亡届。






その文字を見つけた瞬間、手が止まった。

私はゆっくりと、その冊子を引き抜いた。

埃が舞った。

鼻の奥が少しくすぐったい。

表紙を開く。

何人もの名前が並んでいる。


死亡年月日。


年齢。


性別。


死因。


私は頁をめくっていった。

指先が紙に触れるたび、乾いた音がする。

一枚。

また一枚。






そして_____






見つけた。

母さんの名前。

私は息を止めた。

その横には、死亡年月日。

そして、死因。






「...病死」






小さく呟く。

やっぱり、そう書いてある。

私は少しだけ安心した。

何を期待していたのだろう。

病死。

それでいい。

これまで聞いていた話と同じだ。

母さんは病気で死んだ。

それだけ。

私は帳簿を閉じようとした。

その時、違和感があった。






「...ん?」






もう一度頁を見る。

母さんの名前。

その下。

次の記録。

その次。

死亡年月日。

そしてその横にある別の欄。

日付を確認した。

私は眉を寄せた。

母さんが亡くなった日は、私が聞いていた日と違っていた。






「...一日?」






ほんの一日。

記憶違い。

そんなことはいくらでもある。

私は自分にそう言い聞かせた。

幼い頃の記憶なんて曖昧だ。

父さんから聞いた日付を、私が間違えて覚えていただけかもしれない。

それだけなら、何もおかしくはない。






私は頁を捲った。

その時、もう一つ気づいた。

母さんの死因の欄。

「病死」と書かれている。

けれど、その文字だけ少し違った。

他の記録よりも、墨が濃い。

書き直したような跡がある。

私は顔を近づけた。

紙の表面を見る。






「病死」






その二文字の周りだけ、紙が少し毛羽立っていた。

これはまるで。

一度書かれた文字を消して、その上からもう一度書いたような。

私は指で触れようとして、やめた。






「...何で?」






誰に聞くでもなく呟く。

病死なら、最初から病死と書けばいい。

わざわざ書き直す必要なんてない。






私はさらに帳簿を調べた。

その記録の近くに、何か別の紙が挟まっていないか。

裏側に何か書かれていないか。

けれど。

何もなかった。

母さんの死について残っているのは、


名前。


年齢。


日付。


そして、病死という二文字だけ。






私は帳簿を閉じた。

胸の奥が、妙にざわついている。

一日違う。

文字が書き直されている。

それだけ。

本当に、それだけだ。

大したことじゃない。

そう思おうとした。

けれど。

出来なかった。

何故だろう。

母さんのことを調べ始めてから、こういう”小さな違和感”が増えている。


誰かの名前。


知らない街。


途中で途切れた手紙。


検死の記録。






そして_____






母さんの死。






全部、ほんの小さなものだ。

一つ一つなら、偶然で片付けられる。

でも、いくつも重なると。

それはもう、ただの偶然には見えなくなる。

その瞬間。

背後から声がした。






「何をしている」






身体が跳ねた。

振り返る。

父さんが立っていた。

いつ帰ってきたのか分からない。






「...父さん」






父さんの視線が、私の手元に落ちる。

そして、ほんの一瞬だけ、その目が止まった。

私は気づいた。

父さんは、母さんの死亡記録を見ている。






「母さんのこと、調べてた」






私は正直に言った。

父さんは何も言わない。






「母さんって...病気で死んだんだよね」

「あぁ」






即答だった。






「ずっと?」

「何がだ」

「病気だったって話」






父さんは黙った。

私は続ける。






「私、母さんが死んだ日のことを覚えてない」

「...お前は幼かったからな」

「うん」






私は頷く。

そして、少しだけ迷ってから言った。






「でも、父さんから聞いてた日と、この記録の日付が違う」






父さんの顔から、ほんのわずかに表情が消えた。






「...記憶違いだろう」

「そうかもしれない」







私は言った。







「一日だけだし」







父さんはそれ以上何も言わない。

けれど、私はもう一つ聞いた。







「じゃあ、どうしてここだけ書き直した跡があるの?」







沈黙。

家の外で風が吹いた。

窓が、微かに揺れる。

父さんは帳簿を見る。

それから、私を見る。







「古い記録だ」

「うん」

「書き損じくらいある」

「...そうだね」







私は頷いた。

それ以上は聞かなかった。

聞けなかった。

父さんの声はいつも通りだった。

落ち着いていて。

静かで。

何も変わらない。

なのに。

私は思った。






_____父さんは、知っている。






何を知っているのかは分からない。

全てかもしれない。

でも少なくとも。

母さんの死について。

私が知らない何かを、ずっと前から知っている。

父さんが私に歩み寄り、帳簿を閉じる。






「このことは忘れろ」

「...どうして?」

「昔のことだ」

「でも!」






父さんの手が止まる。






「母さんのことでしょ...」






私は父さんの顔を見る。






「私の、母さんのことだよ...」






父さんはしばらく黙っていた。

やがて、低い声で言った。






「だからだ」

「...え?」

「お前は知らなくていい」






その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。

また、同じ言葉。

”知らなくていい”。

父さんはずっと、そう言ってきた。

私は何も言わなかった。

ただ、父さんの横を通り過ぎて、部屋を出た。

廊下に出る。

夕方の光が、床に細長く伸びている。

私はその光の上に立った。

足元が少し温かい。

けれど。

胸の中は冷たかった。

母さんは病気で死んだ。

それは変わらない。

少なくとも、記録には、そう書いてある。

ただ、私は初めて思った。






「病死」という言葉は、母さんの死そのものではない。






それは。

誰かが紙の上に残した、二文字に過ぎない。

そして、その二文字を書くまでに、何があったのか。






私はまだ、何も知らない。

廊下の先で、父さんの足音が聞こえる。

私は振り返らなかった。

今は、父さんを追いかけない。

その代わり、母さんの残したものを。

もう一度、最初から見直そうと思った。

小さな違和感を、一つずつ拾っていく。






母さんが何を知っていたのか。




母さんが何を見ていたのか。




そして_____。




母さんが、最後に何を残したのか。

それだけを、私は知りたかった。




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