第二章 河灯 第三十三話
翌日。
昼だった。
宮城の中庭に、薄い光が落ちている。
私は石段に腰を下ろし、紙を見ていた。
斑から貰った地図。
河沿いだけじゃない。
街の中にも、いくつも印がついている。
昨日の裏路地。
そこにも、確かに印があった。
指でなぞる。
一つ。
また一つ。
場所はばらばらだ。
規則性はないように見える。
_____本当にそうだろうか。
私は立ち上がった。
紙を折り、懐にしまう。
「.....見に行く」
呟くように言って、歩き出した。
最初の場所は、北の通りだった。
人通りの多い場所。
店も並んでいる。
だがその一角だけ、少し空気が違った。
壁際。
地図に、印がある場所。
今は何もない。
血の跡も、水の跡も。
人が行き交い、何もなかったように過ぎていく。
私はしゃがみ込む。
石畳に手を当てる。
乾いている。
完全に。
「.....何もない」
思わず呟く。
次の場所へ向かう。
西の路地。
そして、さらに南。
いくつか回る。
だが、同じだった。
時間が経っているからか、何も残っていない。
共通点も見えない。
被害者の年齢も、性別も、ばらばら。
場所も、繋がりがない。
_____関係がない。
そう思いかけて、止まる。
本当にそうか。
ただ、私が気づいていないだけじゃないのか。
最後に、昨日の裏路地へ戻った。
昼でも薄暗い。
人はほとんどいない。
縄は外されていたが、空気はまだ重い。
私はゆっくりと奥へ進む。
あの場所。
男が倒れていた場所。
石畳の上に立つ。
目を閉じる。
まだ新しい、昨日の光景が浮かぶ。
仰向けの男。
乾いた血。
そして、あの糸。
私は目を開ける。
足元を見る。
何もない。
水の跡も。
糸も。
_____ない。
「.....そういえば」
自然と声が漏れる。
河灯の糸。
水の中で見たもの。
あれはどうやって来たのだろうか。
ここには何も残っていない。
私は周囲を見る。
壁。
石畳。
排水溝。
どこにも、水の痕跡はない。
完全に乾いている。
それなのに、あの糸だけがあった。
_____街でも見つかっている。
斑はそう言った。
どうやって、ここに。
その時だった。
違和感に気づく。
壁。
私はゆっくり近づく。
指でなぞる。
ほんのわずかに、引っ掛かりがある。
傷とも違う。
擦れたような跡。
細い線。
上へ、伸びている。
私は視線を上げる。
壁の中ほど。
人の手が届くか届かないかの高さ。
そこにも、同じような跡。
さらに上。
.....まだ続いている。
私は息を止める。
「.....落ちたんじゃない」
声がした。
背後から。
振り返る。
斑が立っていた。
いつものように、音もなく。
私は少しだけ息を吐く。
「.....斑」
斑は壁を見ている。
私が見ていた場所を、そのまま。
「気づいたか」
短い言葉。
私は頷く。
「これ.....引っかかった跡?」
斑は一歩近づく。
壁に手を当てる。
「落ちたなら、下に痕が残る」
指でなぞる。
「だがこれは違う」
ゆっくりと上を指す。
「引かれている」
その言葉が、静かに落ちる。
私は壁を見る。
下から上へ。
一直線じゃない。
少し歪んでいる。
揺れたように。
動いたように。
「.....何が」
自分でもわからないまま、聞く。
斑は少し黙る。
それから言う。
「河灯は、水の中で起きているわけじゃない」
私は顔を上げる。
「水はただの副産物だ」
言葉の意味が、すぐには理解できない。
水じゃない。
私は斑を見る。
「じゃあ.....何なの?」
問いかける。
斑はすぐには答えない。
しばらく、壁を見ていた。
それから静かに言う。
「触れるな」
低い声だった。
「.....あれは、人が扱っていいものじゃない」
その言葉に、背筋が冷える。
私はもう一度、壁を見る。
線の跡。
上へ。
さらに上へ。
私は目を凝らす。
そして、気づく。
「.....あ」
思わず声が出る。
壁の高い位置。
人の手が届かない高さ。
そこに、ほんのわずかに、光るもの。
細い繊維。
引っかかっている。
河灯の糸。
私は息を呑む。
こんな高さに。
どうやって。
誰が。
_____人じゃない?
その考えが、頭をよぎる。
斑は何も言わない。
ただ、その糸を見ている。
私はゆっくりと後ずさる。
触れてはいけない。
本能がそう告げている。
*
夜。
街の外れ。
人の気配のない場所。
男が一人、立っていた。
静かに。
何もせず。
ただ、地面を見ている。
やがて、しゃがみ込む。
懐から小さな袋を取り出す。
中には、細い糸。
河灯の糸。
男はそれを一つ取り出す。
地面に置く。
指で、軽く押し込む。
見えなくなるように。
それから立ち上がる。
地図を広げる。
印がいくつもある。
そして、新しく一つ。
印をつける。
「.....まだ足りない」
小さく呟く。
風が吹く。
外套が揺れる。
男は顔を上げる。
宮城の方を見る。
遠くに、灯り。
「もうすぐだ」
誰に言うでもなく。
その声は、夜に溶ける。
男は地図を折る。
そして、闇の中へ消えていった。




