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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第一部 検死役の娘

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第二章 父と母 ep.33



父さんに聞くのをやめてから、三日が経った。

正確には、聞くのをやめたというより。

_____今は、聞いても答えてくれない。

そう思うことにした。




朝餉のあと、私は自分の部屋に戻った。

障子を開ける。

まだ朝の冷たさが残っていた。

庭の土は少し湿っていて、昨夜降った雨の匂いがする。

軒先から落ちる雫が、石の上で小さく弾けていた。


ぽつ。


ぽつ。


規則正しい音。




私は縁側に腰を下ろした。

膝を抱える。

ぼんやりと庭を眺めながら、母さんのことを考えていた。

母さん。

その言葉を頭の中で繰り返してみる。

けれど。

顔が、はっきりしない。

目を閉じれば、何となく輪郭だけは浮かぶ。

髪は長かったように思う。

柔らかい声。

細い手。

それから_____

笑っていたような気がする。

でも、それだけだった。




私は母さんが亡くなった時、まだ幼かった。

だから、母さんについて知っていることなんて、ほとんどない。

優しかった。

よく本を読んでいた。

父さんと一緒に仕事をしていた。

そして、病気で死んだ。

それくらい。

……本当に、それだけだった。

私は眉を寄せる。




「……おかしいな」




思わず呟いた。

何がおかしいのか。

自分でも分からない。

ただ。

今まで母さんについて「知らない」ということを、知らなかったような気がする。

母親というのは、最初からそこにいるものだと思っていた。

写真を見る。

名前を知っている。

父さんが時々話す。

それだけで、知っているつもりになっていた。

でも。

私が「検死室に入れて」と言った日から、母さんの名前を口にしただけで、あれほど空気が変わるのを見てから。

昨日、父さんの顔を見てから。

急に。

自分の中の母さんが、ひどく遠い人になった。




私は立ち上がった。

そして、母さんの部屋に入る。

部屋の隅に置かれた古い木箱を見る。

母さんのものだった。

以前、文献を見つけた箱とは別のものだ。

小さい頃からそこにあった。

父さんは、ほとんど触れない。

私も、今まで気にしたことはなかった。

でも。

今は気になる。

私はしゃがみ込み、蓋に手を置いた。

木が少し冷たい。

指先で表面を撫でると、細かな傷がいくつもある。




「……母さん」




小さく呼ぶ。

返事があるはずもない。

それでも。

蓋を開けるのに、少しだけ勇気が必要だった。

かすかに軋む音がして、箱が開く。




中には、古い布。

数冊の本。

髪飾り。

小さな硝子瓶。

それから、何枚かの紙。




私は一つずつ取り出した。

紙は黄ばんでいた。

端が少し丸まっている。

文字は母さんのものらしい。

けれど。

私は読んでも、意味がよく分からなかった。


薬草の名前。


身体の部位。


何かの数値。


そして、細かな図。

人体の図だった。


心臓。


肺。


肝臓。


骨格。


血管。


私は眉を寄せる。




「……こんなの、いつ勉強したんだろう」




母さんが本を読む人だったことは知っている。

でもこれは、ただの読書の跡には見えなかった。

紙の隅に、小さな書き込みがある。




_____死亡後、身体温度は環境によって変化。




その下に、別の文字。




_____死後硬直の開始時間には個体差あり。




さらに。




_____眼球の変化。

_____皮膚色の変化。

_____血液の沈降。




私は手を止めた。

胸の奥が、少しだけざわついた。

これは、検死の記録だ。

私は知っている。

父さんが仕事で使っている記録にも、似たような項目がある。

死後の身体に何が起きるのか。

どこを見ればいいのか。

どんな変化なら自然で、どんなものなら不自然なのか。

検死役なら、当然知っていなければならないこと。

でも。

母さんは、正式な検死役ではなかったはずだ。




私は一枚の紙を持ち上げた。

そこには、人間の腕の絵が描かれていた。

手首。

肘。

肩。

その横に、細かな文字が並んでいる。

傷の位置。

色。

深さ。

周囲の腫れ。

私は紙を見つめた。

こんなものを。

母さんは、いつから書いていたんだろう。




ふと、昔の記憶が蘇った。

幼い頃。

私は熱を出したことがある。

布団の中で苦しくて、泣いていた。

母さんが額に手を当ててくれた。

冷たい手だった。




「大丈夫よ」




そう言って。

私の瞳を覗き込んだ。




「熱はあるけど、意識はちゃんとしてるね」




あの時は、ただ優しい母親の言葉だと思っていた。

でも。

今考えると。

母さんは、私の目の動きを見ていた。

呼吸の速さを見ていた。

唇の色を見ていた。

手を握り、脈を測っていた。




「お水、飲める?」

「……うん」

「吐き気は?」

「ない」

「頭は痛い?」

「ちょっと」

「そう」




母さんは笑った。




「じゃあ、大丈夫」




あの頃の私は、それが母親というものなのだと思っていた。

けれど、今になって思えば。

あれは、ただの母親の心配の仕方ではなかったのかもしれない。




私は紙を置いた。

そして、別の本を手に取る。

古い。

表紙には題名すらない。

開く。

紙が擦れる音がした。

中には、びっしりと文字が書かれていた。

最初の数頁は薬草について。

次は毒。

その次には人体。

そして、その後には_____

死体。

私は息を止めた。

そこには、死後の身体に起こる変化について、細かく書かれていた。




「……こんなに?」




思わず声が漏れる。

頁をめくる。

また一枚。

また一枚。

どれも同じだった。


死亡推定時刻。


体温。


死後硬直。


死斑。


外傷。


出血。


窒息。


溺水。


毒物。


知らない言葉もいくつかある。

けれど、父さんの仕事を横で見てきた私には分かる。

これは。

検死についての知識だ。

しかも。

かなり深い。




私は本を膝の上に置いた。

指先が、少し震えていた。

母さんは。

こんなことを知っていたのか。

どうして?

いつから?

誰に教わった?

私は知らない。

何も知らない。

でも。

ひとつだけ思い出した。




母さんは昔から、父さんの検死室に入ることがあった。

私は幼すぎて、何をしているのか分からなかった。

ただ。

扉の隙間から見えた母さんの姿を覚えている。

白い布をかけられた遺体。

その横に立つ母さん。

父さんが何かを話している。

母さんは頷いている。

そして。

遺体の手を取っていた。

怖がっていなかった。

嫌そうな顔もしなかった。

ただ、静かに見ていた。

あの時の母さんの横顔を。

私は今でも、何となく覚えている。

綺麗だった。

でも。

同時に。

少しだけ怖かった。

幼い私は、それが何なのか分からなかった。

今なら分かる。

母さんは。

死体を見ていた。

しかも。

ただ見ていたんじゃない。

何かを確かめるように。




私は膝の上の本を見る。

紙の匂いがした。

古い木と、乾いた墨の匂い。

その奥に、ほんの少しだけ。

薬草のような匂いが残っていた。

母さんの匂いなのかもしれない。

そう思った瞬間。

胸の奥が、きゅっと縮んだ。

母さんのことを、ほとんど覚えていない。

なのに。

こんなところには、母さんが残っている。

文字の癖。

紙を折る位置。

書き直した跡。

小さな丸印。

何度も消して、書き直した文字。

生きていた頃の母さんが。

そこにいる。

私は一枚の紙を指でなぞった。

その紙の端に、小さく書かれていた。




_____「死体は、最後まで身体に残る」




私は、その言葉をしばらく見つめていた。

どういう意味なのかは分からない。

けれど。

妙に、胸に引っかかった。




私は本を閉じる。

その瞬間。

廊下から足音がした。

私は顔を上げた。

一定の間隔。

ゆっくりと近づいてくる。

父さんだ。

足音が、部屋の前で止まる。

私は反射的に、本を閉じたまま胸元に抱えた。

扉の向こうに、人影がある。




「……紗詠」

「うん」

「何をしている」




私は少し迷った。

そして。

嘘をつくことはできなかった。




「母さんのものを見てた」




沈黙。

扉一枚を挟んでいるだけなのに。

父さんの気配が、急に遠くなったように感じた。

やがて。




「……そうか」




それだけだった。

足音が、遠ざかっていく。




私はしばらく動けなかった。

そして。

膝の上の本を見下ろす。

母さんは。

ただ優しい人だったのだろうか。

それとも。

私が知らない顔を、他にも持っていたのだろうか。




私はもう一度、最初の頁を開いた。

そこには。

母さんの筆跡で、日付が書かれていた。

私が生まれるより、ずっと前の日付だった。

その下には。

検死についての、短い記録。

私は息を潜めて、文字を追った。

_____母さんは。

私が生まれる前から。

死体を見ていた。

その事実だけが。

静かに、胸の奥へ沈んでいった。




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