第二章 河灯 第三十二話
朝だった。
宮城の廊下は静かだ。
足音だけが、石に響く。
昨日の会話が、頭から離れない。
_____河灯は毎年起きている。
_____今年は多い。
_____.....あれが動いている。
あの会話では何も説明はなかった。
聞いたところで、きっと答えは返ってこない。
それなら。
私は足を止めない。
待っていても、何もわからない。
自分で調べるしかない。
検死室には誰もいなかった。
窓から入る光は弱く、室内は薄暗い。
昨日の遺体の記録が、机の上に置かれている。
私はそれを横目に見ながら、棚の方へ向かう。
記録棚。
古い木の棚には、紙束や封箱が並んでいる。
河灯。
その言葉を探す。
だが、すぐには見つからない。
それどころか、不自然だった。
記録が少ない。
あれだけ毎年起きていると言っていたのに、残っているものがほとんどない。
指先で紙の背をなぞる。
古い記憶。
新しい記録。
だが、繋がらない。
_____隠されている。
そんな考えが、ふと浮かぶ。
私は手を止めた。
昨日の糸。
あれは回収された。
なら、保管されているはずだ。
記録は隠せても、証拠は消せない。
私は棚の下段へ視線を落とす。
封箱が並んでいる。
他のものより古い、色のくすんだ箱。
札が付いている。
その文字を見た瞬間、息が止まった。
「河灯」
小さく書かれている。
一つじゃない。
いくつもある。
私は手を伸ばす。
指が箱に触れる。
その時だった。
「それは勝手に触るな」
声。
背後からだった。
私は振り返る。
斑が立っていた。
いつの間にか、すぐ後ろにいる。
足音は聞こえなかった。
私は手を引く。
「.....ごめん」
斑は箱を見ている。
そして私を見る。
「お前は何を調べている」
視線が真っ直ぐだ。
逃げ場がない。
少し迷う。
だが、隠しても意味がない。
「河灯」
言葉に出すと、少しだけ息が軽くなる。
斑はしばらく何も言わなかった。
それから、わずかに口元が動く。
「やめておけと言っているだろう」
静かな声。
だが、重い。
「戻れなくなる」
私は斑を見る。
「お前を、こっちに来させたくはない」
その言葉の意味を考える。
危険だと言っている。
それでも。
私は目を逸さなかった。
「.....でも、知りたい」
声が少しだけ硬くなる。
「父さんも、斑も、知っている。私だけが知らない」
一歩、踏み出す。
「それが嫌なの」
言い切る。
検死室の空気が、少しだけ変わる。
斑が私を見る。
ほんのわずかに、驚いたように。
今までとは違う視線だった。
しばらく沈黙が落ちる。
それから。
斑は棚に手をかけた。
さっき私が触れようとした封箱を、迷いなく取り出す。
鍵も確認もない。
当然のように。
上役しか扱えないはずのもの。
斑はそれを机に置いた。
「河灯の糸だ」
箱が開かれる。
中を見る。
私は息を呑んだ。
布。
その中に。
細い糸が、いくつも入っている。
一つじゃない。
数え切れないほど。
乾いたもの。
わずかに光るもの。
絡まったままのもの。
それぞれ違うが、全て同じだった。
河灯の糸。
私は思わず手を伸ばしかける。
だが、触れない。
「.....全部」
声が出る。
「河で見つかったもの?」
斑は首を振った。
「いや」
短い否定。
そして、少し間を置く。
「街でも見つかっている」
私は斑を見る。
昨日の裏路地。
あれは、特別じゃなかった。
初めてじゃない。
ずっと前から、起きていた。
「河灯は灯りじゃない」
斑が言う。
私は黙って聞く。
「.....あれは痕跡だ」
痕跡。
その言葉が、静かに落ちる。
「何の.....?」
自分でも、声が小さいのがわかる。
斑は少しだけ視線を落とした。
それから言う。
「何かが通った痕だ」
背筋に、冷たいものが走る。
通った。
何が。
どこを。
どうやって。
言葉にならない疑問が、胸の中に広がる。
私は箱の中の糸を見る。
ただの繊維じゃない。
通り過ぎた後に、残されたもの。
「.....調べる」
気づけば言っていた。
斑は止めない。
何も言わない。
その代わりに、懐から紙を取り出した。
机に広げる。
地図だった。
この街の。
いくつか印がついている。
河沿い。
そして、街の中にも。
私は指でなぞる。
「.....昨日の路地」
斑が頷く。
「そうだ。河だけじゃない」
静かな声。
だが確かだった。
河灯は、動いている。
*
夜。
宮城の外。
人通りの少ない道を、男が歩いていた。
長い外套。
足音はほとんど響かない。
男は立ち止まる。
懐から紙を取り出す。
街の地図。
いくつかの印。
そこに、新しく一つ印をつける。
南の通り。
裏路地。
昨日の場所。
男は小さく笑う。
「.....もう見つけたか」
誰にともなく呟く。
「斑」
その名前を、静かに口にする。
男は手を開く。
掌の上。
細い糸。
河灯の糸。
それを指でなぞる。
「今年は早い」
夜風が外套を揺らす。
男は視線を上げる。
宮城の灯り。
その奥。
見えない何かを見ているように。
そして、もう一度だけ呟いた。
「.....器も揃い始めた」
意味はわからない。
だが確かに。
何かが、動き始めている。
男は闇の中へ歩き去った。




