第二章 父と母 ep.32
翌朝。
目が覚めてから、しばらく天井を見ていた。
白い天井だった。
昨日と何も変わらない。
朝の薄い光が障子の隙間から差し込み、畳の上に細長い四角を作っている。
外では鳥が一度だけ鳴き、その声が遠くへ消えていった。
いつもの朝だった。
なのに。
胸の奥だけが、昨日とは違っていた。
目を閉じる。
すると、すぐに浮かんでくる。
昨日、聞いてしまった会話。
父さんと斑の声。
低く抑えられた声だった。
私は全部を聞いたわけじゃない。
廊下の向こうから、途切れ途切れに聞こえてきただけだ。
だから、会話の意味も分からない。
けれど。
ひとつだけ。
二人が口にした「あれ」という言葉だけが、妙に耳に残っていた。
風が吹いて、障子が小さく鳴った。
ただ。
父さんの声が、いつもの声ではなかった。
それだけは覚えている。
検死室で遺体を前にしている時とも違う。
誰かに死因を説明する時とも違う。
もっと低くて。
もっと慎重で。
まるで、言葉そのものが誰かに聞かれることを恐れているような声だった。
私は布団の中で、ゆっくり息を吐いた。
「……あれって、何」
口に出してみても、答えは返ってこない。
当然だ。
ここには私しかいない。
私は起き上がった。
髪が頬に張りついている。
手で払うと、指先にまだ少しだけ眠気が残っていた。
けれど、頭の中は妙に冴えていた。
昨日のことが、ずっと引っかかっている。
河灯。
あの糸。
そして、教団。
母さんの本。
中央記録庫。
それに_____父さんと斑が知っている「あれ」。
全部が繋がっているような気がする。
でも、どこから繋がっているのかは分からない。
糸の先だけが見えていて、その先が暗闇に沈んでいるようだった。
私は布団を畳み、着替えた。
台所へ向かう。
廊下を歩いていると、味噌と焼いた魚の匂いがした。
いつもの匂いだった。
それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
台所では、父さんが朝餉の支度をしていた。
背中を向けている。
鍋の蓋を開ける音。
湯気。
木の匙が器の縁に触れる、小さな音。
何も変わっていない。
私は入口に立ったまま、父さんの背中を見ていた。
昨日も。
今日も。
父さんは、同じ背中をしている。
なのに。
今は、その背中の向こうに何か隠されているように見えた。
「……おはよう」
声をかける。
父さんは振り返らない。
「あぁ。起きたか」
いつもの返事。
それだけだった。
私は席についた。
父さんが味噌汁を置く。
湯気が立ち上り、出汁の香りが鼻をくすぐった。
私は箸を持つ。
けれど、手は動かなかった。
父さんも何も言わない。
二人の間に、朝の静けさだけが流れていく。
庭から風が入った。
私は味噌汁に目を落とした。
表面に浮かんだ油が、細かく揺れている。
聞かなければ。
そう思った。
でも、どう聞けばいいのか分からない。
「あれって何?」
そんな聞き方をしたら、父さんはきっと答えない。
そもそも「あれ」が何なのか。
私自身が分かっていない。
だから。
私は別のところから切り込むことにした。
「父さん」
「なんだ」
「昨日さ」
箸が止まった。
ほんの一瞬だった。
でも、私は見た。
「……何だ」
「斑と話してたよね」
父さんは何も言わない。
味噌汁の湯気が、二人の間をゆっくり上っていく。
「聞いたのか」
「少しだけ」
嘘ではない。
全部は聞いていない。
父さんは箸を置いた。
その動作が、いつもよりゆっくりだった。
「何を聞いた」
「それが……よく分からない」
自分でも少し可笑しくなる。
「だから聞いてるの」
父さんは私を見る。
黒い瞳が、まっすぐこちらを向いた。
何かを見極めるような目。
検死の時と同じ目だった。
私はその視線から逃げなかった。
「“あれ”って言ってた」
父さんの表情が変わる。
ほんのわずかに。
眉が動いた。
それだけだった。
けれどやっぱり。
知っている。
私は確信した。
「……何のことだ」
父さんは答えなかった。
「河灯?」
沈黙。
「教団?」
沈黙。
「それとも……母さん?」
その名前を口にした瞬間。
父さんの目が、初めて揺れた。
ほんの一瞬。
けれど、今度は見間違いじゃなかった。
「……母さん?」
もう一度聞く。
父さんは視線を落とした。
「関係ない」
「関係ないなら、どうして黙るの?」
「黙っているわけじゃない」
「じゃあ答えて」
少しだけ声が強くなった。
自分でも驚く。
父さんにこんな言い方をしたことは、あまりない。
でも。
今は引けなかった。
「父さんは何か知ってる」
「……」
「昨日もそうだった」
父さんは何も言わない。
「河灯のことも」
私は指を一本ずつ折るように言った。
「教団のことも。母さんの本のことも。中央記録庫のことも」
最後に。
「……“あれ”のことも」
父さんは長い間、黙っていた。
外で鳥が鳴く。
遠くで荷車の車輪が石畳を擦る音がした。
世界はいつも通り動いている。
なのに、この小さな家の中だけ時間が止まっているようだった。
やがて父さんが口を開く。
「……知らなくていい」
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。
昨日も聞いた。
似たような言葉を。
知るな。
近づくな。
するな。
いつもそうだ。
でも、今度は少し違った。
私は、静かに聞いた。
「どうして?」
父さんは答えない。
「危ないから?」
「……そうだ」
「何が危ないの?」
「紗詠」
「何が危ないの?」
もう一度言った。
父さんは顔を上げた。
その顔を見て、私は息を止めた。
怒っているわけじゃない。
呆れているわけでもない。
そこにあったのは_____
恐怖だった。
ほんのわずか。
それでも確かに。
父さんは、何かを恐れている。
私は今まで、父さんが怖がるところなんて見たことがなかった。
こんなに表情に出すなんて。
死体を前にしても。
血を見ても。
宮城の役人と話している時でさえ。
父さんはいつも静かだった。
何が起きても、必要なことだけを見ていた。
そんな父さんが。
今、私を見ている。
まるで。
私が何かを知ってしまうことそのものを恐れているように。
「……父さん」
声が小さくなった。
「母さんって」
そこまで言って、喉が詰まる。
母さんの顔は、もうほとんど思い出せない。
髪の長さも。
声も。
手の温度も。
何となく優しかったという記憶だけが残っている。
だからこそ。
今まで私は、母の死について深く考えたことがなかった。
病気だった。
それで終わっていた。
父さんがそう言ったから。
私も、そう思っていた。
でも。
もし。
違っていたら?
その考えが浮かんだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……母さんは」
私はゆっくりと言った。
「何を知ってたの?」
父さんの指が止まる。
答えは返ってこなかった。
代わりに、父さんは立ち上がった。
椅子の脚が、畳を擦る。
小さな音だった。
「朝飯を食え」
「父さん」
「冷めるぞ」
「話を逸らさないで」
「紗詠」
低い声。
私は口を閉じた。
父さんは食卓の上に視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
やがて。
「……今は、まだ話せない」
そう言った。
今は。
その言葉だけが、胸に残った。
「今は」なら。
いつかは話すのだろうか。
私は父さんの横顔を見る。
その顔はいつもの父さんだった。
けれど。
昨日までと同じには見えなかった。
母さんの名前を出したときに揺れた目。
「あれ」と言ったときの沈黙。
そして_____。
「今は、まだ話せない」という言葉。
知らない。
私は、母さんについて何も知らない。
母さんがどんな人だったのか。
何をしていたのか。
何を知っていたのか。
そして。
どうして死んだのか。
そのどれも。
私は知らなかった。
箸を持つ。
冷めかけた味噌汁を一口飲んだ。
少しだけ塩辛かった。
それなのに。
なぜか、味がしなかった。
私は俯いたまま思った。
_____父さんを追いかけるのは、まだ早い。
父さんは話さない。
なら、無理に聞き出しても意味がない。
それならまず、私は。
知らなかったことを、知ればいい。
母さんについて。
私が知らない母さんのことを。
それが、何かに繋がっている気がした。
ただの勘だった。
根拠なんてない。
それでも。
胸の奥に、小さな火が灯ったような気がした。
母さんの名前を思い浮かべる。
知らない。
だからこそ。
知りたい。
私は箸を置いた。
そして、もう一度だけ父さんを見る。
父さんは何も言わなかった。
ただ、朝の光の中で静かに湯呑みを持っていた。
その横顔が。
ひどく遠く見えた。




