表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第二章 河灯

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/35

第二章 河灯 第三十一話



遺体は担架に乗せられた。

裏路地にはまだ人の気配が残っている。

野次馬たちが遠巻きに様子を見ていた。

役人たちが縄を張り、道を開ける。






担架が持ち上がる。

私はその後ろを歩いた。

石畳の上に残った血が、乾き始めている。

昼の光がほとんど入らない路地は、ひどく冷たく感じた。






河ではない。

それなのに。

男の爪に絡んでいたものが、頭から離れない。

細い糸。

水を含んだような光。

昨夜、河の水面に漂っていた灯り。

その灯りの中に沈んでいた、あの繊維。






私は前を歩く斑の背中を見る。

白い外衣の背。

静かで、揺れない歩き方。

その背を見ながら、さっきの言葉を思い出す。






_____.....始まったか。






私は少し足早になる。






「斑」






斑は振り向かない。






「何が始まったの」






歩く速度は変わらない。

ほんの少し沈黙が落ちる。

そして斑が言った。






「検死でわかる」






短い言葉。

それだけだった。

それ以上は聞けない。

私は口を閉じる。






宮城の門が見えてきた。

高い壁。

石の門。

担架はそのまま検死棟へ向かう。

重い扉が開いた。

薬草と石灰の匂いが流れてくる。






検死室の空気は冷たい。

昼でも灯りが必要な部屋だ。

窓は高く、小さい。

光は細く落ちるだけで、部屋の奥までは届かない。






担架が台の横に置かれる。

布が外される。

男の顔が現れる。

私は近づく。






目は半分開いている。

口元の血は乾いている。

死後、それほど時間は経っていない。






父さんが手袋をはめる。

指を一本ずつ整えるような、静かな動き。

その動作はいつ見ても無駄がない。

長く検死をしてきた人の手だ。






「始める」






短く言った。

斑が台の反対側に立つ。

私は道具を整える。

父さんはまず顔を見た。






瞼。






頬。






口。






そして首へ視線が落ちる。

父さんの指が、ゆっくりと首筋に触れる。

皮膚を押し、角度を変える。






私は息を止めて見ていた。

指の跡。

薄く残る圧迫の痕。

父さんの指がその上をなぞる。

ほんのわずかに、指の動きが止まった。

だが父さんは何も言わない。






次に胸を見る。

衣を開く。

皮膚の色。

打撲の有無。

父さんの目は、一つ一つ確かめるように動いていく。






私は道具を渡す。

斑は横で静かに記録している。

部屋の中には、布の擦れる音だけが響く。






やがて父さんは腕を取った。

男の腕はもう硬くなり始めている。

指が曲がり切っていない。

死後硬直の初期だ。

父さんは手を持ち上げる。

そして指を開く。






そこには、まだあった。

爪の間。

細い繊維。

絡むように入り込んでいる。

水を含んだように、わずかに光を反射している。

河灯(かとう)の糸。

昨夜、河の中で見たもの。

同じだ。

父さんはそれを見た。

ほんの一瞬だけ。

だが、私は気づいた。

街で糸を見た時もそうだった。

父さんの目は驚いていない。

驚く代わりに、確かめるような目だった。

まるで、そこにあることを知っていたように。






斑が布を差し出す。

父さんは受け取る。

糸を指先でそっと持ち上げる。

細い繊維。

簡単に切れてしまいそうなほど弱い。

父さんは慎重に布の上へ落とす。

布を折り、包む。

私はその手元を見つめていた。

胸の奥に、妙な感覚が残る。

どうして。

父さんは驚かないのだろう。

父さんは手袋を外す。

静かな音。

それから言った。






「.....溺死ではない」






検死室にいた役人が、小さく頷く。

当然だ。

これは河ではない。

父さんは続ける。






「首に圧迫痕がある」






役人の顔が変わる。






「他殺.....ですか」






父さんは短く頷いた。

室内に静かな空気が落ちる。

街の殺し。

普通なら街役所の管轄だ。

役人が言う。






「では、この件は街の方へ回します」






父さんは言葉を遮った。






「いや」






部屋の空気が止まる。

父さんは遺体を見たまま言う。






「この件は」






ほんの一瞬だけ間を置く。






「宮城で扱う」






役人たちの顔に緊張が走る。

宮城で扱う事件は限られている。

王族。

国家の案件。

秘匿の事件。

街の裏路地の遺体が、そこに入ることはほとんどない。

だが、誰も異論は言わない。

父さんの判断だからだ。

この中では、一番上の立場。

ここにいるただの役人たちは、頷く。






「.....わかりました」






検死は終わった。

遺体には再び布がかけられる。






私は道具を片付ける。

だが、頭の中は静かではなかった。

河灯(かとう)の糸。

街の遺体。

そして、宮城の扱い。






片付けを終えて廊下に出る。

扉が閉まる。

その時、奥の部屋から声が聞こえた。

父さんと斑。

私は足を止める。

聞くつもりはなかった。

だが、声が小さく響いた。

父さんが言う。






「.....今年は早いな」






斑の声。






「そうですね」






少し沈黙がある。

父さんが続ける。






河灯(かとう)は毎年起きているが_____」






私は息を止めた。

毎年。

斑が言う。






「今年は数が多い」






父さんが小さく息を吐く。






「.....()()が動いている」






私は思わず壁に背をつけた。

()()

何のことだろう。






その時、椅子が動く音がした。

足音が近づく。

私は慌てて廊下を歩き出した。

振り返らない。

胸の鼓動が速い。






河灯(かとう)は毎年起きている。

父さんも。

斑も。

知っていた。

知らなかったのは、

私だけだ。











夜。

宮城の外。

門の近くの影に、男が立っていた。






長い外套。

男は宮城を見上げる。

検死棟の窓に灯りがついている。






男は小さく笑った。

手を開く。

掌の上には、細い糸。

河灯(かとう)の糸。






男はそれを見つめる。

そして静かに言った。






「.....今年は早いな」






糸を握る。

男は、暗闇へ歩き去った。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ