第二章 河灯 第三十一話
遺体は担架に乗せられた。
裏路地にはまだ人の気配が残っている。
野次馬たちが遠巻きに様子を見ていた。
役人たちが縄を張り、道を開ける。
担架が持ち上がる。
私はその後ろを歩いた。
石畳の上に残った血が、乾き始めている。
昼の光がほとんど入らない路地は、ひどく冷たく感じた。
河ではない。
それなのに。
男の爪に絡んでいたものが、頭から離れない。
細い糸。
水を含んだような光。
昨夜、河の水面に漂っていた灯り。
その灯りの中に沈んでいた、あの繊維。
私は前を歩く斑の背中を見る。
白い外衣の背。
静かで、揺れない歩き方。
その背を見ながら、さっきの言葉を思い出す。
_____.....始まったか。
私は少し足早になる。
「斑」
斑は振り向かない。
「何が始まったの」
歩く速度は変わらない。
ほんの少し沈黙が落ちる。
そして斑が言った。
「検死でわかる」
短い言葉。
それだけだった。
それ以上は聞けない。
私は口を閉じる。
宮城の門が見えてきた。
高い壁。
石の門。
担架はそのまま検死棟へ向かう。
重い扉が開いた。
薬草と石灰の匂いが流れてくる。
検死室の空気は冷たい。
昼でも灯りが必要な部屋だ。
窓は高く、小さい。
光は細く落ちるだけで、部屋の奥までは届かない。
担架が台の横に置かれる。
布が外される。
男の顔が現れる。
私は近づく。
目は半分開いている。
口元の血は乾いている。
死後、それほど時間は経っていない。
父さんが手袋をはめる。
指を一本ずつ整えるような、静かな動き。
その動作はいつ見ても無駄がない。
長く検死をしてきた人の手だ。
「始める」
短く言った。
斑が台の反対側に立つ。
私は道具を整える。
父さんはまず顔を見た。
瞼。
頬。
口。
そして首へ視線が落ちる。
父さんの指が、ゆっくりと首筋に触れる。
皮膚を押し、角度を変える。
私は息を止めて見ていた。
指の跡。
薄く残る圧迫の痕。
父さんの指がその上をなぞる。
ほんのわずかに、指の動きが止まった。
だが父さんは何も言わない。
次に胸を見る。
衣を開く。
皮膚の色。
打撲の有無。
父さんの目は、一つ一つ確かめるように動いていく。
私は道具を渡す。
斑は横で静かに記録している。
部屋の中には、布の擦れる音だけが響く。
やがて父さんは腕を取った。
男の腕はもう硬くなり始めている。
指が曲がり切っていない。
死後硬直の初期だ。
父さんは手を持ち上げる。
そして指を開く。
そこには、まだあった。
爪の間。
細い繊維。
絡むように入り込んでいる。
水を含んだように、わずかに光を反射している。
河灯の糸。
昨夜、河の中で見たもの。
同じだ。
父さんはそれを見た。
ほんの一瞬だけ。
だが、私は気づいた。
街で糸を見た時もそうだった。
父さんの目は驚いていない。
驚く代わりに、確かめるような目だった。
まるで、そこにあることを知っていたように。
斑が布を差し出す。
父さんは受け取る。
糸を指先でそっと持ち上げる。
細い繊維。
簡単に切れてしまいそうなほど弱い。
父さんは慎重に布の上へ落とす。
布を折り、包む。
私はその手元を見つめていた。
胸の奥に、妙な感覚が残る。
どうして。
父さんは驚かないのだろう。
父さんは手袋を外す。
静かな音。
それから言った。
「.....溺死ではない」
検死室にいた役人が、小さく頷く。
当然だ。
これは河ではない。
父さんは続ける。
「首に圧迫痕がある」
役人の顔が変わる。
「他殺.....ですか」
父さんは短く頷いた。
室内に静かな空気が落ちる。
街の殺し。
普通なら街役所の管轄だ。
役人が言う。
「では、この件は街の方へ回します」
父さんは言葉を遮った。
「いや」
部屋の空気が止まる。
父さんは遺体を見たまま言う。
「この件は」
ほんの一瞬だけ間を置く。
「宮城で扱う」
役人たちの顔に緊張が走る。
宮城で扱う事件は限られている。
王族。
国家の案件。
秘匿の事件。
街の裏路地の遺体が、そこに入ることはほとんどない。
だが、誰も異論は言わない。
父さんの判断だからだ。
この中では、一番上の立場。
ここにいるただの役人たちは、頷く。
「.....わかりました」
検死は終わった。
遺体には再び布がかけられる。
私は道具を片付ける。
だが、頭の中は静かではなかった。
河灯の糸。
街の遺体。
そして、宮城の扱い。
片付けを終えて廊下に出る。
扉が閉まる。
その時、奥の部屋から声が聞こえた。
父さんと斑。
私は足を止める。
聞くつもりはなかった。
だが、声が小さく響いた。
父さんが言う。
「.....今年は早いな」
斑の声。
「そうですね」
少し沈黙がある。
父さんが続ける。
「河灯は毎年起きているが_____」
私は息を止めた。
毎年。
斑が言う。
「今年は数が多い」
父さんが小さく息を吐く。
「.....あれが動いている」
私は思わず壁に背をつけた。
あれ。
何のことだろう。
その時、椅子が動く音がした。
足音が近づく。
私は慌てて廊下を歩き出した。
振り返らない。
胸の鼓動が速い。
河灯は毎年起きている。
父さんも。
斑も。
知っていた。
知らなかったのは、
私だけだ。
*
夜。
宮城の外。
門の近くの影に、男が立っていた。
長い外套。
男は宮城を見上げる。
検死棟の窓に灯りがついている。
男は小さく笑った。
手を開く。
掌の上には、細い糸。
河灯の糸。
男はそれを見つめる。
そして静かに言った。
「.....今年は早いな」
糸を握る。
男は、暗闇へ歩き去った。




