第二章 父と母 ep.34
母のものを調べるようになってから、私は毎日のように少しずつ木箱を開けるようになった。
一度に全部を見ることはしなかった。
何となく、そうしたくなかった。
箱の中身を全部出してしまえば、母さんがそこに残していた時間まで、まとめてひっくり返してしまうような気がしたからだ。
だから、一日に一つ。
多くても二つ。
それくらいにしていた。
朝の検死が終わった後。
昼下がりの静かな時間。
あるいは夜、父さんが眠った後。
私は一人で母さんのものを開いた。
最初に見つけたのは、髪飾りだった。
細い銀の飾り。
小さな青い石が一つだけ嵌め込まれている。
私はそれを掌に乗せた。
冷たかった。
けれど、しばらく握っていると、体温で少しずつ温かくなっていく。
母さんも、これを触ったのだろうか。
髪に挿したのだろうか。
そう考えるだけで、不思議な気持ちになった。
私は鏡の前に立って、自分の髪に当ててみる。
当然だけれど、似合わなかった。
少し笑ってしまう。
「……母さんなら似合ったのかな」
言ってから、笑いが消えた。
母さんなら。
その言葉を、私はどれだけ使っただろう。
母さんなら。
母さんだったら。
母さんは。
けれど、その後に続く言葉を私は知らない。
どんな人だったのか。
何が好きだったのか。
何が嫌いだったのか。
どんなことを考えていたのか。
知らない。
私は髪飾りを元の場所に戻した。
次に見つけたのは、本だった。
前に見た検死に関する本とは違う。
こちらは古い薬草の本だった。
紙の端が擦り切れている。
ところどころに母さんの書き込みがあった。
「これは苦味が強い」
「乾燥させると香りが変わる」
「傷口には使用しない」
そんな、ごく普通のメモ。
私は頁をめくっていく。
すると、途中で何かが挟まっていることに気づいた。
細長い紙だった。
本の栞だと思って引き抜く。
けれど裏返して、手が止まった。
人の名前が書かれていた。
一つ。
二つ。
三つ。
全部で五人。
名前の横には、日付が添えられている。
そのうちの一つには、小さく丸がついていた。
「……誰?」
私は呟いた。
見覚えのない名前だった。
母さんの友人だろうか。
仕事関係の人だろうか。
それとも。
患者。
_____いや。
検死役に患者はいない。
私は首を振った。
紙を光に透かしてみる。
何もない。
裏側にも何も書かれていない。
それ以上の情報はなかった。
名前と、日付。
それだけ。
私は紙を本の間に戻した。
けれど今度は、その名前が頭から離れなくなった。
数日後。
私は母さんの手紙を見つけた。
古い封筒だった。
紐で何重かにまとめられている。
封はすでに切られていた。
私は一番上の手紙を開いた。
母さん宛てだった。
差出人の名前は知らない。
内容は、短かった。
近況について。
体調について。
そして最後に、
_____「あの件については、もう少し待ってほしい」
そう書かれていた。
私はそこで読むのを止めた。
あの件。
何のことだろう。
次の手紙を開く。
こちらには、
_____「あなたが気にしていることは理解しています」
とあった。
その次。
_____「今はまだ、動かない方がいいと思います」
またその次には、
_____「もし本当に確かめたいのなら、古い記録を探してください」
私は紙を持ったまま固まった。
古い記録。
何の記録?
どこにある?
誰が書いたもの?
手紙を何度も読み返した。
けれど、それ以上は書かれていない。
宛名も。
送り先も。
具体的な事件の名前もない。
ただ、「記録を探して」とだけ。
私は封筒の裏側を見る。
そこに、見覚えのある印があった。
でも、どこで見たのだろう。
小さな丸。
その中に一本の線。
……これも、母さんの印なのだろうか。
私はその形を指先でなぞった。
何となく、前に見たものと似ている気がする。
けれど、確信はない。
私は手紙を机の上に置いた。
すると紙の下から、もう一枚。
小さな紙片が滑り落ちた。
床に落ちる。
私は拾い上げた。
そこには、場所の名前が書かれていた。
聞いたことのない場所だった。
宮城から少し離れた地方。
小さな町の名前。
その下に日付が一つ。
私は眉を寄せた。
その日付を見て。
胸の奥がざわついた。
母さんが亡くなる、二年ほど前だった。
「……行ったの?」
もちろん答えはない。
私は紙を見つめた。
母さんが、その町へ行った。
それだけ。
理由は分からない。
誰と行ったのかも分からない。
何を見たのかも分からない。
ただ。
母さんの残したものの中に、その場所の名前があった。
それだけだった。




