第二章 河灯 第二十九話
翌朝。
検死室の扉を開けた瞬間、私は足を止めた。
空気が違った。
いつもと同じ部屋のはずなのに、どこか張り詰めている。
石の床。
薬草の匂い。
窓から差し込む薄い朝の光。
全て変わらない。
だが、部屋の中央に立っている人物だけが違った。
見慣れない衣。
役人だった。
宮城の紋が入った黒い衣を着ている。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、こちらを見ていた。
その横には、斑が立っていた。
腕を組んで、壁にもたれている。
表情はいつも通りだった。
だが、どこか静かすぎた。
役人が口を開く。
「お前が紗詠か」
低い声だった。
私は一歩中へ入る。
「.....そうです」
役人は私をじっと見た。
まるで品定めをするように。
「検死見習いだな」
「はい」
短く答える。
役人は小さく頷いた。
そして、唐突に言った。
「昨夜」
その言葉で、胸がわずかに強く打った。
「どこへ行った」
一瞬、部屋の空気が重くなる。
私は役人を見た。
その目は静かだった。
ただ真実を聞いているような顔。
だが、胸の奥がざわつく。
どうして。
どうして昨夜のことを。
私はゆっくり口を開いた。
「家に」
嘘ではない。
私は確かに家にいた。
ただ、その後外へ出ただけだ。
役人の目は変わらない。
「ずっとか」
短い問い。
私は答える前に、ふと横を見る。
斑。
斑は壁にもたれたまま、こちらを見ていた。
表情は読めない。
何も言わない。
助ける様子もない。
私は役人に視線を戻した。
「.....夜は、家にいました」
役人はしばらく黙っていた。
検死室の奥で、水が滴る音がする。
遠くで誰かの足音。
それだけが聞こえる。
やがて役人は、ゆっくり視線を斑へ向けた。
「お前は」
斑は肩を壁から離した。
「何だ」
淡々とした声。
役人は言う。
「昨夜、河へ行ったな」
空気が止まる。
私は思わず斑を見る。
斑は眉一つ動かさなかった。
「巡回だ」
短く答える。
役人は頷いた。
「何か見たか」
斑は答える。
「何も」
その声はあまりにも普通だった。
役人は斑をしばらく見ていた。
だが、それ以上は追及しなかった。
代わりに、もう一度こちらを見る。
「最近、河の噂が多い」
ゆっくり言う。
「夜に灯りが流れる」
私は何も言わない。
役人は続ける。
「くだらない話だ」
その言い方は冷たかった。
「子どもの遊びのようなもの」
私は胸の奥がざわつくのを感じた。
子どもの遊び。
そう言いながら、この人は昨夜のことを聞いている。
役人は言う。
「だが」
一歩、こちらへ近づいた。
「余計なことを詮索する者が出てきている」
私は黙っている。
役人の目が私を見据える。
「お前は」
わずかに間を置く。
「検死見習いだな」
「.....はい」
「ならば、仕事だけをしていろ」
その声は静かだった。
だが、命令だ。
「河の噂など気にするな」
私は答えない。
役人は少しだけ私を見ていた。
やがて背を向ける。
「斑」
役人が名前を呼ぶ。
「巡回は続けろ」
斑は短く答えた。
「わかっている」
役人は扉へ向かう。
そして、ふと足を止めた。
振り返らないまま言う。
「夜の河には」
少しだけ声が低くなる。
「近づくな」
それだけ言って、役人は出て行った。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
私はしばらく動けなかった。
胸の奥がざわつく。
見られていた。
昨夜。
河にいたことを。
誰かが。
「.....紗詠」
斑の声。
私は顔を上げる。
斑が私を見ていた。
その目は、いつもより少しだけ鋭かった。
「言っただろ」
低い声。
「来るなって」
私は思わず言う。
「どうして知ってるの」
斑は答えない。
私は続ける。
「昨夜、私たち以外に誰かいたの?」
斑は少しだけ沈黙した。
そして、ゆっくり言う。
「河は」
短く息を吐く。
「見られている」
私は息を止めた。
「.....誰に?」
斑は私を見た。
だが、その問いには答えなかった。
代わりに、低く言う。
「紗詠」
その声は、今まで聞いたことがないほど静かだった。
「もう」
少し間を置く。
「引き返せ」
私は何も言えなかった。
頭の中に浮かぶのは、昨夜の河。
水の中で揺れていた灯り。
そして。
斑の袖の中に消えた、あの糸。
私はゆっくり首を振った。
「.....無理」
小さく言う。
「もう見たから」
斑はしばらく黙っていた。
やがて、静かに目を閉じる。
そして言った。
「.....そうか」
その声は、諦めにも似ていた。




