第二章 河灯 第二十八話
街はすでに眠りについていた。
家々の灯りは消え、通りには人の姿もない。
私は静かに戸を閉め、外へ出た。
冷たい夜風が、頬に触れる。
私は歩き出した。
夜の通りを、河へ向かって。
やがて、街の灯りが遠ざかる。
湿った空気が肌に触れる。
河の匂いだ。
私は足を止めた。
目の前に、黒い水面が広がっている。
夜の河は暗い。
流れは静かだが、底は見えない。
私はゆっくり岸へ近づいた。
周囲には誰もいない。
水の音だけが聞こえる。
私は河を見つめた。
灯り。
本当にあるのだろうか。
市場では噂だった。
子どもたちの遊びのような話。
だが。
河に触れた男は言った。
糸みたいだった、と。
私は岸にしゃがみ、水面を覗き込む。
何もない。
ただ黒い水が流れているだけだ。
時間が過ぎていく。
風が吹き、水面がわずかに揺れる。
やはり、噂なのだろうか。
そう思った時だった。
河の中央。
ほんのわずかに。
光が浮かんだ。
私は息を止める。
小さな光だった。
水の中で揺れている。
火ではない。
沈んでいるように見える。
細い。
微かな光。
「.....」
私は立ち上がる。
光は流れに乗って、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
揺れながら。
淡く。
静かに。
私は目を離せなかった。
これが。
河灯。
私は一歩、近づく。
水面はすぐそこだ。
光はもう手が届きそうな距離に来ている。
私はゆっくり手を伸ばした。
無意識だった。
その瞬間。
後ろから強い力で腕を引かれた。
体が後ろへ引き戻される。
「触るな」
低い声だった。
振り返る。
斑だった。
暗闇の中に立っている。
いつの間に来たのかわからない。
白い衣。
濡れていない足。
まるで最初からそこにいたようだった。
斑は私の腕を掴んだまま、河を見ている。
「.....見たのか」
私は頷く。
斑は小さく息を吐いた。
そして。
何も言わずに河へ入った。
水が静かに割れる。
斑は迷いなく歩く。
真っ直ぐ。
河灯の方へ。
膝まで水に浸かる。
それでも歩みは止まらない。
私は思わず声を上げた。
「待って!」
斑は振り返らない。
河灯はゆっくり流れている。
斑はその前で立ち止まった。
そして。
冷たい河水の中に、斑の腕が沈む。
躊躇はない。
光の真上。
斑の指が、水の中のそれを掴んだ。
次の瞬間、腕が引き上げられる。
水が滴る。
闇の中、わずかな光が斑の手の中で揺れた。
それは灯りではなかった。
細い。あまりにも細い。
濡れた繊維の束だった。
水を含んだ糸が、絡まり合いながら微かに光っている。
灯りのように見えたのは、光を反射しているだけなのかもしれない。
斑はしばらくそれを見ていた。
表情は読めない。
斑はそのまま岸へ戻ってきた。
水を踏みながら。
静かに。
岸へ上がる。
私は言った。
「.....斑」
斑は袖の中へ何かをしまう。
そして私を見る。
暗い目だった。
「何しに来た。一人で来るなと言ったはずだ」
「.....灯りを、見に」
私は答える。
斑の眉がわずかに動いた。
「見ただろ。もう帰れ」
短い言葉だった。
私は一歩踏み出す。
「さっきの、何」
斑はしばらく黙っていた。
夜の河の音だけが聞こえる。
遠くで水が石に当たる音。
風に揺れる葦の音。
斑はゆっくりとこちらを見た。
その目は、いつものように静かだった。
「.....灯りだ」
短く言う。
私は思わず言い返した。
「灯りじゃない。糸だよ。遺体の爪に絡んでいたものと同じ」
言いながら、胸がざわつく。
あの溺死体の爪の間にあった細い繊維。
それと同じ。
斑は否定しなかった。
ただ私を見ていた。
その視線が、少しだけ重い。
「どうして回収しているの」
私は聞いた。
答えてはくれないとわかっていても、そうするしかなかった。
「いつから?.....ずっと、前から?」
黙っている斑に、責めるような口調で問いを繰り返してしまう。
夜の風が、私たちの間を通り抜ける。
河の水が、静かに流れていく。
やがて斑は視線を外し、言った。
「知らない方がいい」
私は言い返す。
「知らない方がいいことを、あなたはやってる」
斑の目が、わずかに細くなる。
だが、怒っている様子はない。
ただ静かだった。
やがて斑は低く言う。
「ここには来るな」
私は黙る。
斑は続ける。
「次は」
そこで言葉を止めた。
私は聞き返す。
「次は?」
斑は少しだけ目を伏せた。
そして言った。
「俺が止められない」
風が強く吹く。
河の水面が揺れる。
私はその言葉の意味を、まだ理解できなかった。
ただ。
斑の袖の中に消えたものだけが、頭から離れなかった。




