第二章 河灯 第二十七話
夜。
家の中は静まり返っていた。
廊下の奥で灯りが一つ揺れていた。
父はもう寝ているのだろう。
物音はほとんどない。
私は自分の部屋の戸を閉め、机の前に座った。
小さな油灯が、机の上を照らしている。
その灯りの中で、私はしばらく動かなかった。
頭の中に残っているのは、あの男の手だった。
黒くなった指先。
皮膚がただれ、腐り始めているようにも見えた。
そして。
男の言葉。
_____糸みたいだった。
私はゆっくり息を吐く。
机の上の帳面に手を伸ばした。
私の私的記録帳だ。
正式な検死記録ではない。
ただ、自分の覚え書きとして書き始めたもの。
まだ頁は多くない。
検死に付き添い始めてからの記録だけだ。
私は最初の頁を開く。
溺死体。
河で見つかった男。
身体の状態。
水の匂い。
皮膚の色。
そして。
爪。
私はそこに書いた一行を見つめた。
《爪の間に細い繊維あり》
私は次の頁をめくる。
もう一体の溺死体。
同じ河。
同じような状態。
そして。
そこにも書いてある。
《爪の間に細い繊維》
私は手を止めた。
部屋の中で、明かりの火が小さく揺れる。
二体とも。
同じだった。
私は少しだけ目を伏せる。
河で溺れたなら、草や藻が絡むことはある。
流れてきた枝。
泥。
そういうものが爪に入ることもある。
だが。
あの繊維は違った。
細い。
藻でも草でもない。
そして。
妙に均一だった。
自然のものには見えなかった。
私は小さく呟く。
「.....糸」
あの男は言った。
灯りは。
糸みたいだった、と。
私は帳面を閉じる。
机の上に手を置いたまま考える。
もし、河灯が。
糸のようなものなら。
そして。
それに触れた手が、ああなるのなら。
あの繊維は。
灯りと関係しているのだろうか。
私はゆっくり首を振る。
まだわからない。
ただの偶然かもしれない。
河にはいろいろなものが流れている。
繊維くらい、いくらでもある。
そう思う。
だが。
もう一つのことが頭から離れない。
斑。
あの夜、河の中で。
斑は何かを回収していた。
水の中から。
迷いなく。
まるで。
それがどこにあるのか知っているように。
そして、あの時。
斑は私に言った。
_____次、河に来る時は一人で来るな。
私は静かに息を吐く。
言葉の意味はわかっている。
危険だからだ。
あの男の手を見れば、それくらいわかる。
だが。
私は目を閉じる。
斑は何も教えてくれない。
灯りのことも、河のことも。
あの夜、何を回収していたのかも。
私はまだ検死役ではない。
中央記録庫にも入れない。
過去の溺死体も調べられない。
調べる手段はほとんどない。
それでも。
あの河には何かがある。
私はそれを見てしまった。
知らないままでいることは、もうできない。
私は立ち上がる。
窓の方へ歩いた。
窓を少し開ける。
夜の空気が流れ込んできた。
遠くで犬の声がする。
街はもう静かだった。
私は暗い空を見上げる。
河灯。
もしそれが、本当にあるのなら。
もしそれが、
死と関係しているのなら。
確かめる方法は一つしかない。
私は小さく呟いた。
「.....ごめん」
誰に向けた言葉か、自分でもわからない。
斑か。
父さんか。
それとも、自分自身か。
だが。
私はもう決めていた。
斑も、父さんも、教えてくれない。
なら。
自分で見るしかない。
私はゆっくり窓を閉める。
部屋の灯りが静かに揺れた。
灯りが出る夜。
その時、河で何が起きるのか。
私はまだ知らない。
だが、私はそこへ行く。
たとえ、一人でも_____。




