第二章 河灯 第二十六話
夕暮れが近づいていた。
市場の賑わいはまだ続いているが、どこか一日の終わりの空気が混じっている。
荷をまとめる音。
魚の桶に水を足す音。
遠くで子どもが笑っている。
私は人の流れの中を歩いていた。
昼に聞いた言葉が、まだ頭に残っている。
_____灯りは流れてこない
_____河の中から出る
そして。
_____斑は灯りを捕まえる人
私は歩きながら河の方を見る。
ここからは見えない。
だが、確かにそこにある。
私は最初の店の前で立ち止まった。
干し肉を吊るした店だ。
店主の男が包丁を研いでいる。
私は声をかけた。
「すみません」
男は顔を上げる。
「なんだ」
私は言う。
「河灯のこと、知っていますか」
男の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
だがすぐに鼻で笑う。
「灯り?そんなもの知らん」
包丁をまた研ぎ始める。
私はもう一度聞いてみる。
「夜の河で、光が浮くって」
男は面倒そうに言った。
「子どもの話だ。.....もういいかい。こっちはまだ忙しいんだよ」
それ以上は答えない。
私は礼を言って店を離れた。
次の店でも聞いた。
野菜屋の女。
布を売る男。
だが、答えは同じだった。
「知らない」
「聞いたこともない」
「子どもの遊びだ」
皆、同じように笑う。
だが、笑い方が少し硬い。
やはり、大人は濁すか。
純粋で、平気で言葉を言う子どもとは違って、大人は国家を恐れ、本当のことを言わない。
私は市場の端まで歩いた。
河から吹く風が少し冷たい。
その時だった。
「.....あんた」
後ろから声がした。
振り向くと、魚屋の女が立っていた。
年を取った女だ。
手には濡れた布を持っている。
私は近づく。
「さっき聞いていたね」
低い声だった。
私は頷く。
「河灯のことです」
女は周囲を見回す。
人の声。
荷車の音。
市場のざわめき。
それでも声を落とした。
「あんた、検死役のとこの娘だろ」
私は少し驚く。
「.....知っているんですか」
女は鼻で笑った。
「この街で知らない奴はいないさ」
それから小さく言う。
「余計なことは聞かない方がいい」
私は答える。
「知りたいんです」
女はしばらく私を見ていた。
やがて小さく息を吐く。
「.....触れた男がいる」
胸の奥が静かに鳴った。
「河灯に」
私は思わず言う。
「どこにいるんですか」
女はすぐには答えなかった。
魚を桶に戻しながら言う。
「関わらない方がいい。ろくなことにならないよ」
私は動かなかった。
女はまた私を見る。
「どうしても聞くのかい」
私は頷く。
女はしばらく黙っていた。
それから顎を少しだけ動かす。
「河の裏路地だ。古い家が並んでいる。その中に病人がいる家がある。.....そこだ」
私は言う。
「ありがとうございます」
女はすぐに背を向けた。
「礼なんかいらない」
小さく付け加える。
「でも覚えときな」
私は足を止める。
女の声は低かった。
「その男のところにも、夜に来た奴がいる」
胸の奥が少しだけ冷える。
「白い服の奴だ」
私は何も言えなかった。
市場を出る。
空はすでに赤く染まり始めている。
河の方へ歩く。
街の音が少しずつ遠くなる。
やがて路地に入る。
石畳は湿っていた。
河の匂いもする。
古い家が並んでいる。
私はゆっくり歩いた。
一軒目。
静まり返っている。
二軒目。
戸が閉まっている。
三軒目の前で足を止めた。
中から咳の音が聞こえた。
私は戸を叩く。
しばらくして少し開いた。
若い女が顔を出した。
疲れた目をしている。
「誰ですか」
私は言う。
「河のことで」
女の表情が変わった。
私は続ける。
「灯りのことを聞きに来ました」
沈黙が落ちる。
やがて女は戸を開いた。
「.....入って」
家の中は暗かった。
油の灯りが一つ。
部屋の奥に布団が敷かれている。
そこに男が横になっていた。
私は思わず足を止める。
男はひどく痩せていた。
顔色は青白い。
そして。
手。
指先が黒くなっていた。
私はゆっくり近づく。
「大丈夫ですか」
男はゆっくり目を開ける。
焦点が少し揺れている。
「.....誰だ」
掠れた声だった。
私は言う。
「河灯に触れたと聞きました」
男の目に恐怖が浮かんだ。
「.....見たのか」
「いいえ」
私は首を振る。
「でも、知りたいんです」
男は天井を見つめた。
やがて小さく言う。
「綺麗だった」
私は息を止める。
「夜の河で.....光が浮いた」
男は震える手を動かす。
黒くなった指。
「取れると思った」
私は静かに言う。
「触ったんですね」
男は目を閉じる。
「.....ああ」
部屋の灯りが揺れた。
私は男の手を見る。
黒ずんだ指。
皮膚はただれ、腐り始めている様にも見える。
男は続けた。
「冷たかった。.....氷みたいに」
私は聞く。
「灯りだったんですか」
男は首を振る。
「光だった。でも.....」
男の声が震える。
「動いてた」
私は聞き返す。
「動く?」
男はゆっくり言った。
「糸みたいに」
胸の奥で何かが繋がる。
糸。
死体の爪。
河灯。
男は苦しそうに息を吐いた。
「触ったら.....手に絡んだ。すぐに離した。でも_____」
男の目が震える。
「遅かった」
私は何も言えなかった。
しばらくして男が言う。
「.....でも」
私は顔を上げる。
「俺だけじゃなかった。その夜、河に_____」
男はゆっくり目を開く。
「白い服の奴がいた」
胸が静かに鳴る。
男は続ける。
「そいつは、灯りを全部持って行った」
私は礼を言い、立ち上がる。
家の外に出ると、夜の空気が広がっていた。
すぐ近くで河の音がする。
私は河の方を見る。
夜になれば、あそこに灯りが出る。
そして、斑が現れる。
男の話によれば、灯りは動いていた。
ただの光ではないということが、判明した。
少しずつ、靄がはっきりとしてきた。




