第三十六話
高校三年生、冬。マヤは、ピアノに真正面から向かっていた。
進路を真剣に考えるようになった、二年生の頃、マヤは、音楽大学を受験すると、決めたのだった。
ナナカやユウマ、家族に背中を押された事もあり、今まで以上に、ピアノを練習していた。
「……ピアノ科って、厳しいんですか」
「大切なのは、入試。ここでミスをしてしまうと、合格したとしても、自信を持ち続けられる可能性は低くなるの。今は大変だけど、先の事を考えてみて。今頑張れば、後が楽しくなる」
マヤにピアノを教えている講師は、今を大切にして、自信を持つ事を、教えてくれた。
今しかできない事を、今だからこそやる。それが、ピアノ講師のモットーだった。
「私がピアニストになったら、先生、コンサート来てくださいね」
「それは、もちろんよ」
会話を交わした後、マヤは再び、ピアノに向き合う。
今は辛くとも、それを乗り越えるために、努力をしよう。そう、マヤは思った。
ナナカとミホは、進路の事で、少し揉めていた。
「私は、ナナカに夢を捨てろなんて言ってない」
「ミホちゃんに、夢を叶えろって言われた覚えもない」
ナナカには、獣医になるという、夢があった。
偏差値の高い暁星高校を目指したのも、獣医の夢を追いかけるためだった。
けれど、幹田家には、それほどのお金はない。
それを知ったナナカは、夢を諦めて、就職することを、決めたのだ。
「なんで諦める? 大学行くお金くらい、用意してあげられるのに」
「……嘘つけ。本当は金欠なんでしょ? 暁星行きたいって言った時も、苦い顔してた」
「は? そんなの気のせい。ナナカが夢を見つけたなら、叶えて欲しい」
「夢を取るか、家族を取るかって言われたら、私は家族を取る。それだけだ」
「……絶対、後悔する」
「しない。ミホちゃんを幸せに出来るのに、後悔するわけない」
「じゃあ、なんで暁星入った? 何のために? 今まで必死に勉強したのは、何の意味があった!?」
「……別に、いいじゃん! 私が、こうしたいって、勝手に決めた。ミホちゃんに、とやかく言われる筋合いは、ない」
「……そう。私も、何も言わないよ」
「絶対、後悔しないから」
そう言ったナナカに背を向け、ミホは涙を流していた。
娘にこんな風に思わせてしまう親に、なってしまったのだろうか。
ミホは、自分を責めていた。
本当に、それでナナカは納得しているのか、ミホは疑問でしかなかった。
好きな事をさせてあげたい。夢を、叶えてあげたい。
それも出来ない自分は、親として失格なのだろう。そう、ミホは思った。
中学生の頃よりも、ユウマの熱心な勉強は、加速していた。
南大学は、ユウマがただ、偏差値を合わせて見つけた大学だった。
どこに行きたいとか、どこに就職したいとか。そんな夢物語は、ユウマの頭の中にはなかった。
だから、とりあえず大学を出ようと、ユウマは思ったのだ。
「本当に、行きたいところないの?」
「ない。みんなと違って、俺は目指してる事すらない」
「……たまには、親にも頼ってよね」
「……うん」
母のチサトは、昔から真面目なユウマが、心配になっていた。
このまま、なんとなくで高校を卒業し、なんとなくで大学を出たら、この子はどうなってしまうのだろう。
チサトは、そう思い悩んでいた。
夫のダイキに相談したところで、まともな返事が返ってくるわけがない。
今は、流れに身を任せようと、チサトは思った。
「勉強、程々にね」
「ありがとう。でも、大丈夫」
チサトの心配など、微塵も気にしていないかのように、ユウマはまた、熱心に勉強を始めたのだった。
高校受験の時よりも、入試はすぐにやって来た。
三人は、昔とは違い、今回はそれぞれの場所に向かって行く。
マヤとユウマは、入学試験。ナナカは、内定の報告に向かっていた。
みんな別々に、緊張感を抱えながら、歩みを進めていた。
「……なんで、高校の時より緊張してるんだろ」
マヤは、入試会場を前に、立ち尽くしていた。
高校受験の時にあったはずの、謎の余裕は、今はもう、消え去っていた。
誰かの前で、ピアノを演奏する事は、もう慣れているはずだった。
それなのに、なぜか、今日はいつも以上に、緊張していた。
ユウマは、全ての工程を確実に済ませ、入試を終えていた。
周りに仲間はいないけれど、だからこそ、仲間に良い報告をするべく、ユウマは自信を持って、入試に挑んだ。
偏差値を合わせただけあって、あっという間に時が過ぎ、心のモヤモヤが全て晴れたような、気分だった。
他の三人はどうしているのだろうかと、ユウマは気にかけ始めているのだった。
「トリマー……やります」
ナナカは、マヤとユウマに、就職の結果を報告していた。
トリマーとして、働きに出ることが決まったのだった。
「え、すっご! トリマー? ……なんか、かっこいいね」
マヤは、まるでオーバーリアクションかのような反応をしていた。
「就活、お疲れ様。ナナカは俺らより、先輩みたいなもんだな」
「確かに。就活する時、いろいろ教えて……」
「いや、マヤはピアニストになるんでしょ。私が教えられることなんて、一つもないんだけど」
「まぁ、ダメだった時は、就職するから。そうなったらよろしく」
「はぁ……」
「自信あったのに、滑り止めの方に入る事になるとは……予想外だった」
「南大、割と偏差値高いじゃん」
トウマは、滑り止めとして受験した大学に入学する事になった。
謎の自信があったはずの南大学は、マークミスにより落ちてしまったのだ。
「あーほんと、呆気なかった」
「でも、滑り止めの大学も、気になってたとこなんでしょ? それなら、よかったじゃん」
「まぁ、正直どこでもよかったし」
「なんだそりゃ」
他愛もない話をしている三人とは違うところで、カイは執筆を進めていた。
カイは、大学には進学せず、小説家一本の道を歩む事にしたのだ。
大学へ行くよりも、作家活動に集中するために、本業にしてしまった方が、効率が良いと思った。
それほど、カイは小説にのめり込んでいたのだった。
「うわ、バイト行かなきゃ」
カイは、一人暮らしを夢見て、近所のラーメン屋でアルバイトをしていた。
近所と言っても、自転車で十五分ほどかかる場所だ。
つい執筆に夢中になり、遅刻しそうになる、というのは毎度の事だった。
今日も、大急ぎで自転車を漕ぐ。
信号に捕まった時、横断歩道の向かい側に、ふと目が惹かれていた。
そこにいた女性は、見間違いかと思うほどに、カイの知っている顔だった。
「……マヤ?」




