第06話 - 横たわる課題
記憶の奥底で響く、罵声にも似た反響が、沈んでいた意識をゆっくりと浮上させる。
背中に感じる柔らかな感触。艦長室の椅子とは違い、体全体が包み込まれるように支えられている。
目を開くと、天井の照明が室内を淡く照らしていた。艦長室の無機質な光とは異なり、どこか温もりを感じさせる色調だった。
視線を巡らせる。
豪奢というほどではないが、生活感のある家具が整然と並び、簡素ながらも落ち着いた空間を形作っている。
そして、その中で唯一の人影――クレイが、無言でこちらを見つめていた。
規則正しい姿勢で立ち、青い瞳をまっすぐこちらへ向けている。窓から差し込む淡い星明かりが、その輪郭を薄く縁取っていた。
「……ん……クレイか……」
掠れた声が喉を通る。思いのほか、自分の声が遠く聞こえた。クレイが一歩進み、淡々と答える。
「おはようございます、マスター」
「……あれから、どれくらい経った?」
「中枢星域標準時にて、十三日と十一時間二十三分が経過しております」
「……十三日も」
予想を遥かに超える長さに眉を寄せる。
ベッドから起き上がり、ゆっくりと体を伸ばした。筋肉が軽く軋み、肩や首筋に鈍い疲労が残っている。
「……まだ少し怠いな」
深く息を吸う。冷たく乾いた空気が肺へ入り、少しずつ意識が冴えていく。
「ひどい目に遭った。しかし……」
頭を押さえながら記憶を辿る。過去の記憶が戻ったわけではない。その代わり、膨大な知識が脳内に刻み込まれていた。
「体調に異常はございませんか?」
クレイの声に、ほんの僅かな心配が滲んでいた。
「随分とはっきり覚えている。まだ頭の中で、誰かの声が響いている気もするが……体調は、少し怠さと頭痛が残っている程度だ」
クレイは改めてこちらを見つめた。
「マスターに必要な知識を短期間で定着させるため、速成教育プログラムを使用いたしました」
「速成教育?」
「無意識下で脳の記憶整理機能を利用し、情報を疑似的な経験として定着させる技術です。簡単に言えば、夢の中で訓練を受けた状態に近いものです」
「つまり、私は強制的に知識を脳へ焼き付けられたわけか」
「表現としては、おおむね正しいかと」
「そこは否定してほしかったな」
小さく息を吐く。クレイの視線が僅かに伏せられた。
「事前に説明を行えば、意識的な抵抗が生じ、情報の定着率が低下する可能性がありました。そのため、説明は事後と判断いたしました」
「合理的ではあるな。納得するかは別として」
クレイが小さく頭を下げる。
「まあ、済んだことだ。それに、何も知らないまま艦長席に座るよりはましだろう」
そう言いながらも、頭の奥に残る鈍痛に顔をしかめる。
「必要であれば鎮痛処置を行います」
「いや、いい。少しずつ慣らす」
まだ完全に納得したわけではない。だが、今さらクレイを責めても、状況が良くなるわけではなかった。
ふと、部屋の中にベルの姿が見当たらないことに気づく。
「ところで、ベルはどうした?」
「現在もマスターの外部端末へ潜り、習得した知識の紐づけ処理を行っております。知識が不活性化しないようにするための作業です」
「なるほど。だから静かなんだな」
普段なら、無駄に明るい声がどこからともなく飛んできそうなものだ。クレイは手元の端末へ視線を落としたまま続ける。
「本来であれば、心身へ異常が現れるほどの知識を転写する必要はありません。しかし……大半はアレの自業自得です。どうぞお気になさいませんよう」
どこか諦めの混じった声だった。
「あいつは……」
どうやらベルは、転写する知識を選別するうちに面倒になり、結局は片っ端から放り込んだらしい。
そのせいで知識同士の関連付けが必要になり、今はその後処理に追われているという。整理しなければ、必要な情報を引き出すたびに無関係な知識まで芋づる式に出てくるらしい。
「つまり今、あいつは私の記憶の中で、ひたすら整理整頓をしているのか?」
「その通りです」
AIが自分の記憶の中へ潜り込み、整理をしている。そう考えると、体内に別の存在が潜んでいるようで、どこか居心地が悪い。
「……まあ、静かでいいと思うことにしよう」
苦笑交じりにそう言い、改めてクレイへ向き直る。
「クレイ。話の続きを頼めるか?」
「承知いたしました」
クレイは頷き、部屋の扉へ向かって歩き始めた。どうやら、ここは艦長室の奥にある個人用寝室らしい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
執務室の椅子へ腰を下ろす。正面に立ったクレイが端末を操作すると、部屋の照明が徐々に暗くなっていった。
「前提といたしまして、現在、本艦は船団から離脱しておよそ九百年を経て、恒星トレーズのヘリオスフィア内にある、外殻鉱状帯と呼ばれる岩石帯へ到達しております」
言葉に呼応するように、周囲の壁面がホログラムディスプレイへ変わる。青白い光の中、恒星トレーズを中心とする十二の惑星と衛星群が浮かび上がった。
映像は徐々に拡大され、星系全体を覆う巨大な岩石帯と、その外縁で点滅するクレイドルの現在位置が示される。
「こうして見ると、まだ目的地までは遠いな」
クレイドルは、外殻鉱状帯の端近くにいた。最終目的地である〈テロス〉までの距離は、視覚的にも明らかだった。
「現行速度を維持した場合、テロスの視認距離へ到達するまで、およそ五十三年を要します」
「……五十三年か」
その数字に、思わず言葉が詰まる。
「気の遠くなる話だな。だが、ひとまず状況は把握した。引き続き、艦の現状を報告してくれ」
「かしこまりました」
クレイの指先がホログラムを滑り、艦内の各区画が順に映し出される。立体的に浮かび上がったクレイドルの内部構造は、無数の区画が連結し、迷宮のように入り組んでいた。
損傷箇所は赤く、正常稼働している箇所は青く表示される。クレイは説明を挟まず、淡々と映像を切り替えていく。
私は転写された知識を辿りながら、各区画の名称や機能を確認した。構造図を見ただけで、位置関係や役割が手に取るように分かる。クレイが詳しい説明を省いているのも、そのことを理解しているからだろう。
やがて映像が消え、部屋の明かりが戻った。私は大きく息を吐き、頭の中で情報を整理する。
「……まとめよう」
確認するように、一つずつ口にする。
「まず、推進系統。六基のメインエンジンは完全に機能を喪失しており、再起動は不可能。補助エンジンも爆発の余波で損傷し、交換部品を製造しなければ修理できない」
脳裏には、赤く染まった艦内区画が残っている。
「姿勢制御用の推進剤は、回収した氷塊から製造しているが、備蓄は少ない。光子発電キャパシタも枯渇しつつあり、工場区画を本格稼働させるには不足している」
さらに記憶を辿る。
「艦内の大半も、電力不足によって停止中。重力制御網は寸断され、歪みによって接続部の崩壊が進んでいる。現在のリソースは、艦全体を辛うじて維持するために使われている……そういうことだな」
「マスターのおっしゃる通りです」
クレイは静かに頷いた。
「記憶転写の影響か。かなり重い情報のはずだが、思ったほど動揺していないな」
「おそらく、ナノマシンによる自律神経系の調整が作用しています。過度なストレス反応を検知した場合、身体的な負荷を軽減するよう調整されます」
「ナノマシンの恩恵を、ありがたく思える日が来るとはな」
二の腕へ視線を落とし、皮膚の上を軽く撫でる。
「とはいえ、飲料と食料があるだけでも救いか」
クレイから渡された銀色のパックを手に取る。指で押すと、硬い固形物の感触が返ってきた。ナノマシン投与前に口にした、無味無臭の非常食と同じものだ。
「食料として問題があるかというご質問でしたら、劣化はなく、保存状態も良好です。しかし……それ以外の食料は、すべて腐敗しております」
クレイが端末を操作すると、食料貯蔵区画の映像が浮かび上がった。複数のブロックに、赤い立入禁止の表示が重なっている。
「保存されていた有機食料は、電源喪失によってすべて腐敗しました。現在、該当区画はバイオハザード対策として閉鎖しております。私があそこへ立ち入ることは、二度とないでしょう」
クレイは念を押すように、映像へバイオハザードマークを追加する。その奥を見せまいとするような操作だった。
腐敗した食料の山に、何かが巣食っている。そんな光景が脳裏に浮かび、背筋が冷える。
「まさか、奴らが真空に耐性を持っているとは思いませんでした……」
クレイの唇が僅かに震えた。手元にも、微かな震えが伝わっている。彼女があそこで何を見たのか。いや、詳しく訊くのはやめておこう。
クレイドルが抱える問題は、想像以上に深刻だった。解決には、十分な時間と人員が必要になる。
私は糸口を探すように、クレイへ問いかけた。




