第38話 - 近づく旅の終わり
激しい戦闘を経た一ヶ月後、応急修復を終えたクレイドルは、再びテロスへ向けた航行を再開していた。
この一ヶ月、艦内では修復作業と並行して、各区画の運営体制も見直されていた。戦闘を経験したことで防衛体制は強化され、各部署では有事を想定した訓練も日常の一部となっている。
一方で、食堂や居住区には以前にも増して人の集まる光景が見られるようになり、艦内には生活の息遣いが戻り始めていた。
通路ですれ違えば自然と言葉を交わし、休憩時間には食堂から笑い声が聞こえてくる。静まり返っていた艦内を思えば、その何気ない光景だけでも胸が温かくなった。
だが、私たちが向かう先には、大きな懸念が残されている。
あの日、隔離区画から逃走した黒蜘蛛が、最後に選んだ方角――それがテロスであったという事実は、あの惑星が単なる終着点ではないことを強く示唆していた。
それでもなお、テロスを避けるという選択肢を執る事はできなかった。
理由は単純だ。クレイドルという艦そのものが、既に限界に近づいていたからである。
艦の骨格に刻まれた長年の疲労、代替の利かない部品の欠損。それらは艦内に残された設備だけでは、どうにも埋めようのないものだった。
この先も星の海を渡り続けるためには、本格的な設備を備えた工廠での修復作業が、どうしても必要だったのである。
ラウルディエルから回収した情報には、かつてテロスへ入植した開拓移民船団が管理していた造船工廠が、テロスの重力圏外縁部に設置されていたことが示されていた。
その設備が今も何らかの形で機能しているのであれば、あるいは修復可能であれば――それは、この広大な未踏査領域の中で、クレイドルが望みうる、ほとんど唯一と言っていい生命線だった。
そもそも、テロスから遠く離れた宙域を漂っていたラウルディエルの内部に、あのような存在が眠っていたのだ。テロスを避けたところで、安全が保証されるわけでもない。
遠くには恒星トレーズの光が以前よりもはっきりと輝き、観測画面には、その傍らを巡るテロスの微かな反射光も捉えられている。
正面スクリーンには星々が静かに流れ、左右のコンソールでは観測結果や航路予測が絶え間なく更新されている。
各担当は必要最低限の報告だけを交わし、それぞれが自らの役割を理解した上で動いていた。
この一年半で積み重ねた経験と、先の激しい戦闘から得た教訓が、そんな静かな連携にも表れているようだった。
「テロスまでの到達予測は」
ブリッジで問いかけると、クロムが即座に応じた。
「現在の速度を維持した場合、およそ十日後には到達する見込みです」
「十日、か」
一年半に及ぶ航海の一つの節目が、ようやく現実味を帯びてきた。
テロスという名を聞くだけだった頃には、ここまで辿り着けるとは思ってもいなかった。しかし今、その星が目前まで迫っている。
あの日、隔離区画を突破し、電磁投射砲に貫かれてなお、最後の瞬間まで生き延びようとしていた黒蜘蛛の姿が脳裏に蘇る。
あれが複数、あるいは群れをなして待ち構えているとすれば、今のクレイドルの戦力で対処しきれるという保証はどこにもない。
期待と不安が入り混じった感情が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。
「航行状態は良好です。補助エンジンの出力も安定しており、この分であれば、予定通りの到達が見込めます」
クロムの報告に、私は頷いた。
「引き続き、周辺宙域の警戒は怠るな。あの一件があった以上、油断はできない」
「承知しております」
傍らでは、クロムの指揮の下、複数のオペレーターが観測データの確認を続けていた。
テロス周辺の情報。ラウルディエルから得られた航路上の障害物。そして、未知の脅威に対して設定された警戒範囲。
あらゆる可能性を想定した監視態勢が、静かに、しかし確実に機能していた。誰も口にはしないが、この慎重さそのものが、あの日の戦闘が艦全体に残した傷跡なのだろう。
そこへ、ザルツからの通信が入る。
『艦長、残っていた修復作業、ひとまずのめどが立ちました!』
「本当か」
『ええ。外殻の穴も、装甲の張り替えも、目に見える傷はあらかた塞ぎ終えました。気密試験も問題なしです』
その報告に、ブリッジ全体が僅かに明るい空気に包まれる。しかし、続くザルツの声には、どこか歯切れの悪さがあった。
『外から見りゃ元通りでも、中身は誤魔化しが利きませんので。メインフレームの継ぎ目には、まだ細かい歪みが残ってますし、代替部品がないところは、応急的な補強で凌いでいるだけです』
ザルツは僅かに間を置いた。
『こいつをちゃんと直すには、やっぱり専用のドックが要りますな』
「テロスの造船工廠、か」
『ええ。あそこにちゃんとした設備が残っていれば、の話ですが』
その声には、これまで誰よりも艦の傷と向き合い続けてきた者だからこその、切実な願いが滲んでいた。
「よくやってくれた、ザルツ。部下たちにも、よろしく伝えてくれ」
『了解しました! ……とはいえ、見た目だけでも整えておかねば格好がつきませんからな。最後まで最善を尽くします!』
通信の向こうから聞こえるザルツの声には、確かな誇らしさが感じられた。応急処置とはいえ、艦は確実にあの戦いの直後よりも状態を持ち直している。
「テロスの詳細な観測データが更新されました」
オペレーターの一人が声を上げる。
テロスへ近づき、光学観測の精度が上がったことで、空中に投影される惑星の映像は、以前見た時よりも遥かに鮮明さを増していた。
青く輝く海と、それを縁取る緑の大地。
雲の切れ間からは、幾つもの大陸の輪郭が覗いている。北半球には広大な氷雪地帯が広がり、赤道付近には深い緑に覆われた大陸が横たわっていた。
かつて人類が新天地として選んだというだけあって、その地表は地球のそれによく似た表情をしている。
惑星の周囲には、二つの衛星が静かに寄り添うように公転していた。
一つは‶デュナミス〟もう一つは‶グオノス〟と呼ばれていた。
デュナミスは地球の月をはるかに上回る巨大な衛星であり、その存在感は惑星そのものと並び立つほど圧倒的だった。
もう一つのグオノスは地球の月とほぼ同程度の大きさで、デュナミスよりも外側の軌道を、一定の周期を保ちながら周回している。
この規模の衛星が二つも存在すれば、その重力干渉によって軌道は長く安定しないと考えられている。
しかし、両衛星は絶妙な位置関係を保ちながら互いの重力を釣り合わせ、さらに惑星との三者間で、奇跡的とも言える均衡を維持していた。
テロスの昼側の大陸に目を凝らせば、緑の合間に幾何学的な区画の名残が点在している。かつて都市であったと思しきそれらは既に風化が進み、その多くが森林に侵食されつつあった。
それでも、整然と並ぶ道路網や、格子状に区切られた街区の輪郭は、辛うじてかつての姿を留めている。
私は思わず表示倍率を一段階上げた。
鮮明になった映像には、人の手によって切り拓かれたはずの大地が、長い年月を経て自然へ呑み込まれていく様子が映し出されている。
文明が消え去っても、星そのものは何事もなかったかのように美しい。その対比が、かえって胸の奥へ重くのしかかった。
本来であれば居住区画から漏れるはずの人工の光が、夜側の大陸には一つも見当たらない。
かつて人が住み、都市を築いていたはずのその場所は、今はただ、静かな闇に沈んでいる。
時折、重力に引かれた残骸の一部が大気圏へと落ち込み、摩擦によって淡く発光しながら、尾を引くように燃え尽きていく。
それはまるで、この星を取り巻いていた文明が、今もなお静かに崩れ続けているかのようだった。
その残骸群の一角、比較的損傷の少ない軌道上に、一際大きな構造物が見えた。
老朽化こそ隠せないものの、崩壊した周囲の残骸とは対照的に、ほぼ原形を保ったまま浮かんでいる。
かつての記録に残されていた――造船工廠。私たちがここまで求め続けてきたものが、確かにそこにあった。
「綺麗な星だな」
口をついて出た呟きに、クロムが応じた。
「はい。観測結果を見る限り、極めて良好な環境を示しています」
その言葉に、一抹の期待が胸に灯る。だが同時に、ラウルディエルから回収した記録の数々が脳裏をよぎった。
かつて、この星には確かに人々が暮らしていた。そして、その営みは完全に途絶えている。あの美しい星の中に、何が隠されているのか。
今の私たちには、まだ知る術がない。そう考えると、眼前の光景を素直に美しいとは思えなかった。
いつからこれほど疑い深くなったのか――私は自嘲するように、小さく笑った。




