第35話 - 勝利の代償
ザルツの足音が完全に聞こえなくなると、会議室には再び静けさが戻った。卓上には、先ほどザルツが映し出した黒蜘蛛の脚部の映像が残されている。
傷口から伸びた細い繊維は、失われた本体を探すようにうごめき、閉じかけた外殻には淡い光がまだ残っていた。
『……気味が悪いですねぇ』
珍しく、ベルが小さな声で呟いた。
「ベルでもそう思うのか」
『思いますよぉ。機械なら機械らしくしていてほしいですし、生き物なら生き物らしくしていてほしいです』
ベルは卓上の映像へ顔を近づけるように身を乗り出した。
『こういう、どっちとも言えないのが一番困ります』
「解析する側としてか?」
『それもありますけど……単純に、見ていて落ち着きません』
その言葉に、私は僅かに笑った。普段なら、未知のものを前にすれば真っ先に興味を示しそうなベルが、今回は明らかに距離を取っている。
だが、それも無理はない。
切断されても活動を再開し、外部から電力を与えれば自ら傷を塞ぐ姿は、これまで見てきた機械とも生物とも、どこか根本的に違っていた。
『でもまあ』
ベルが姿勢を戻す。
『分からないなら、調べるしかありませんねぇ』
「ああ」
私は卓上の黒蜘蛛を見つめた。
「そのためにも、まずは今の状況を整理しよう」
クロムが端末へ手を伸ばす。
「艦長。艦の損傷状況についてご報告いたします」
「ああ、頼む」
黒蜘蛛の映像が消え、青白い光で描かれたクレイドルの全体図が浮かび上がる。そこに、赤い警告表示が次々と重なっていく。
「……こうして見ると、随分やられたな」
クロムが指先を動かすと、該当区画が拡大された。
集光砲によって焼失した隔壁。熱で変形した構造材。黒蜘蛛によって破壊された設備。そして、最後の一撃によって船体外殻に生じた破孔。
応急処置が完了した箇所には黄色い表示が重ねられていたが、それでも被害の大きさは一目で分かった。
「船体外殻の破孔については、既に応急封鎖が完了しています。また、第七区から第九区にかけての隔壁についても、必要最低限の強度は確保しました」
「完全な修復には?」
「ザルツの見立てでは、約二週間です」
短いとは言えない。
ただでさえクレイドルは、長い漂流によって各所に問題を抱えている。工業区では今も、老朽化した設備や損傷箇所を補うための部品が休みなく製造されていた。
そこへ今回の修復資材まで加われば、限られた生産能力をさらに圧迫することになる。
「他の復旧作業への影響は?」
「外殻材と隔壁部材の製造を優先した場合、複数区画で予定していた復旧工程に遅延が発生します」
迷う余地はなかった。
「構わない。船体の修復を優先してくれ」
「承知しました」
クロムが端末を操作すると、いくつかの工程表示が書き換えられ、工業区から修復地点へ向けて新たな資材供給経路が引かれていった。
その様子を眺めていると、傍らから静かな声が掛かる。
「マスター。私からも、よろしいでしょうか」
給仕を終えたミーシャだった。
「ああ」
「ライズより、負傷した個体について報告を預かっています」
ミーシャが端末を操作すると、艦内図の脇へ識別番号の一覧が現れた。
「今回の戦闘で、機能停止または重度の損傷を受けた個体は十七体。軽度から中度の損傷まで含めると、合計六十四体です」
「……六十四?」
「はい」
想像していたよりも多い。
「全員、修復は可能なのか?」
「幸い、生体脳や主要中枢への致命的な損傷は確認されていません。重度損傷個体についても、必要な部品が揃い次第、順次復帰できる見込みです」
「それなら……不幸中の幸いか」
「はい。ただ――」
ミーシャの表情は晴れなかった。
「問題は、交換部品の消耗です」
一覧の横へ、部品在庫が表示される。今回の修復で消費される予定の数量が、それぞれ赤く示されていた。
「今回は問題ありませんが、同程度の損害が繰り返された場合、現在の製造能力では補充が追いつかなくなる可能性があります」
「何度でも戦えるわけじゃないということだな」
「その通りです」
失われた四肢も、破損した駆動系も交換すれば再び動く。だが、そのための資材も設備も無限ではない。
その時だった。卓上に浮かんでいた艦内図がふっと消え、会議室の照明が僅かに暗くなった。
「ん?」
『おっと』
ベルの声が響く。
『第三補助電力網への切り替えです。復旧班が頑張っていますので、ご心配なく』
「……これで心配するなという方が難しいな」
数秒後、照明が元へ戻り、艦内図が再び表示される。
誰も何も言わなかった。
だが、目の前で起きた僅かな停電だけで、報告されている被害が数字だけのものではないことを思い知らされる。
「……たった一体で、これか」
思わず漏れた言葉に、誰も答えなかった。
『勝ったことは勝ったんですけどねぇ……』
ベルが困ったように眉を下げる。
「ああ」
私は小さく息を吐いた。
「次も同じ方法で勝てるとは思わない方がいいな」
「同感です」
ヴァイスが端末へ手を伸ばすと艦内図が消え、代わって戦闘記録が表示された。
隔離区画を突破した黒蜘蛛が、通路を疾走している。巨体からは想像もできない速度で床を蹴り、防衛部隊から放たれる攻撃を僅かな進路変更で避けながら前進する。
続いて捕獲剤が投射された。
粘性を持った繊維が四肢へ絡みつき、一瞬だけ動きが鈍る。しかし、それすら力任せに引き千切った。
防衛部隊の一体が前へ出る。振り下ろされた脚部を盾で受け――次の瞬間には、腕ごと弾き飛ばされていた。
映像だと分かっていても、思わず顔をしかめる。
「実際にやり合った感じだと、かなり厄介だったわね」
映像を見ながら、バレットが口を開いた。
「こっちの射線を意識して動いていたし、捕獲剤も二度目からは避けようとしていた。少なくとも、ただ突っ込んでくるだけの相手じゃないわ」
「学習していた?」
「そこまでは分からないわ。でも、戦いながらこっちの動きを見ていたのは確かよ」
ヴァイスが映像を少し進める。
「ここからです」
黒蜘蛛の進路上で隔壁が閉鎖された。その直前まで高速で移動していた巨体が、ぴたりと足を止める。
黒蜘蛛は前脚を大きく振り上げると、隔壁へ叩きつけた。重い衝撃音が響き、分厚い隔壁が内側へ大きく歪む。それでも攻撃は止まらず、同じ箇所へ二度、三度と前脚が振り下ろされる。
防衛部隊から攻撃を受けているにもかかわらず、黒蜘蛛はその場からほとんど動こうとしない。
「……随分、動きが違うな」
「はい」
「障害物を前にすると、そちらを優先する?」
「その可能性があります」
『少々お待ちください』
ノアが会話へ割って入った。
卓上へ複数の映像が展開され、黒蜘蛛が隔壁や構造物に進路を阻まれた場面が次々と抽出されていく。多少の違いこそあれ、その行動はほとんど同じだった。
『確認しました。障害物の排除中、対象の移動頻度および回避行動の発生率が著しく低下しています』
「利用できるか?」
私が尋ねると、ヴァイスはしばらく戦闘記録を見つめた後、映像を消した。代わって表示されたのは、迎撃地点周辺の艦内図だった。
「……侵入を防ごうとすると、こちらの戦力を分散させることになります」
ヴァイスの指が艦内図を滑り、いくつかの隔壁が閉じる。
「逆に、進路をこちらで選ばせます」
「誘導するのか」
「はい」
黒蜘蛛を示す赤い点が現れ、その周囲の隔壁が順番に閉鎖されていき、最後に一本だけ通路が残された。
「進行可能な経路を限定し、予定地点まで誘導する。そこで前方隔壁を閉鎖します」
赤い点が止まった。
「対象が突破行動を開始したところで、捕獲剤を集中投射する。今回のように、正面から足止めする必要はなくなります」
「なるほどな」
敵を入れないのではない。入ってくることを前提に、その行動をこちらで制御する。艦内の隔壁を自由に操作できるクレイドルだからこそ取れる方法だった。
「これなら、次はもう少しましに――」
「艦長。一つ、いい?」
バレットが口を挟んだ。
「どうした?」
バレットは艦内図の一点――捕獲剤によって拘束された黒蜘蛛を指差した。
「捕まえた後はどうするの?」
「…………」
誰も答えなかった。
『そこなんですよねぇ』
ベルが困ったように肩を落とした。艦内図の隣へ、現在クレイドルで使用可能な兵装一覧が表示される。
いくつもの名称が並んだが、黒蜘蛛に対する有効性を示す項目は一つもなかった。
『今のクレイドルにある携行火器では、確実に仕留められません』
「毎回、集光砲を使うわけにもいかないしな」
ベルが少しだけ間を置いて呟いた。
『……それをやると、黒蜘蛛より先にクレイドルが穴だらけになりますねぇ』
「ザルツにも似たようなことを言われたばかりなんだが?」
『それだけ皆さん同じことを思っている、ということですよ』
バレットが吹き出し、ヴァイスも僅かに口元を緩めた。クロムでさえ、苦笑いを浮かべている。
私としてはあまり笑えない。
「まったく……」
私は苦笑しながら椅子へ背を預けた。その間に、クレイが兵装一覧を閉じる。代わって表示されたのは、黒蜘蛛の構造図だった。
もっとも、構造図と呼ぶには空白が多すぎる。
判明しているのは外殻と関節部の一部。内部については、先ほどザルツが報告した断片的な情報しかない。
「結局のところ、有効な対抗手段を確立するためには、対象の構造を把握する必要があります」
クレイが静かに言った。
「外殻を突破するのか。自己修復機能を阻害するのか。あるいは、内部に存在する中枢部位を破壊するのか。現状では判断材料が不足しています」
「……あの脚次第か」
「はい」
「分かった」
私は姿勢を戻した。
「黒蜘蛛の解析を最優先に進めよう。ヴァイスとバレットは、今の案を基に迎撃手順を見直してくれ。侵入経路を限定し、可能な限り直接戦闘を避ける」
「承知しました」
「クロムは艦内の隔壁配置を確認して、誘導に使える区画を洗い出してくれ。次に来るのが一体とは限らない。二体、三体――それ以上だった場合も想定しておいてほしい」
「直ちに着手します」
それぞれが頷く。
今回は勝った。だが、たった一体を相手に泥縄式に戦った結果、船体に大穴が開き、多くの仲間が傷ついた。
それでも、支払った代償を無駄にするつもりはない。今回の戦いで得たものを糧に、次はもっと上手くやる。
そのためにも、今はできることを一つずつ積み重ねていくしかなかった。




