第32話 - 迎撃戦
ヴァイスからの報告を受けたバレットは、一度だけ周囲を見渡すと、部隊全体へ告げた。
「対象は隔壁を突破。まもなくこちらへ到達するわ」
戦術統制個体として実戦を指揮するのは、記憶領域の初期化後では初めてだった。
胸の奥では鼓動が僅かに速まり、呼吸も普段より浅くなっている。異常と呼ぶほどではない。だが、その原因が目前へ迫る敵性個体への警戒だけではないことも理解していた。
その兆候を表情へ出すつもりはなかった。指揮官の動揺は、命令よりも早く部隊へ伝播する。その事実は、彼女の戦術記憶に深く刻まれている。
交差通路は、艦内でも比較的広い構造を持つ区画だった。
四方向から通路が交わり、その周囲には集光砲塔へ繋がる連絡路が延びている。天井や壁、床には、ミーシャたちが急造した捕獲剤が塗り重ねられ、乾ききらない黄褐色の表面が照明を鈍く反射していた。
防衛部隊は隔壁の残骸や資材を利用した遮蔽物へ身を潜め、それぞれの武器を構えている。
構えに乱れはない。ただ、照準を何度も確認する者や、武器を握り直す者が普段より僅かに多かった。
床には砲撃予定区域を示す赤い光の線が明滅している。各分岐には予備部隊が配置され、退路や負傷者の搬送経路、非常時の隔壁閉鎖手順についても確認を終えていた。
短い時間の中で準備できるものは、すべて整えられている。
「赤いラインより内側には、絶対に入らないで」
バレットは声量を一定に保ったまま告げた。
「対象が停止した時点で、三方向から集光砲を照射するわ。影も残さず消滅したくなかったら、前に出ないことを徹底なさい」
「了解しました」
隊員たちの声は、僅かに揃っていなかった。
戦術上は不要と知りながら、何人かが武器の保持位置を直している。バレットはそれを咎めなかった。
自身の右手にも、ごく僅かな震えが生じていた。武器を握り直すと、それはすぐに収まった。
やがて、通路の奥から鈍い金属音が響き始める。隔壁が内側から押し込まれ、一撃ごとに亀裂を広げていた。
バレットは背後の通路へ、一度だけ視線を向ける。
迎撃点の後方には、囮として運び込まれたドライブコアがある。あれに接触させることはできない。
金属の裂ける音と共に、隔壁の一部が内側から穿たれた。
暗い穴の奥で、赤黒い感覚器が蠢いている。穴の縁をなぞるように、幾つもの突起が異なる方向へ動いた。
それがこちらへ向いた瞬間、呼吸が一拍だけ乱れた。背部の筋肉が強張り、重心が僅かに後方へ移る。
恐怖。
バレットは、自身に生じた反応をそう認識した。
「構えを維持」
発声機能にも思考処理にも支障はない。近くにいた隊員が、硬い声で尋ねた。
「指揮官殿……我々で、あれを止められるのでしょうか」
急遽、防衛線へ編入された施設管理担当のバイオロイドだった。本来の任務は艦内設備の維持であり、実戦を経験している個体ではない。
「止めるわ」
バレットは即答した。
確実性を保証できるだけの情報はない。だが、ここで必要なのは予測値ではなく、行動を継続させるための命令だった。
「相手は前衛と戦って傷を負っている。恐れるほどの余力は、既にないわ」
隊員は一度息を呑み、武器を握り直した。
軋み続ける隔壁から、低い振動が通路へ伝わる。誰も口を開かない。呼吸音すら聞こえそうな静寂の中、照準器だけが隔壁を捉え続けていた。
次の瞬間、隔壁が内側から弾け飛んだ。
破片が四方へ飛散し、三本の脚を持つ異形が姿を現す。
失われた脚の付け根は黒い膜で塞がれ、残された脚にも無数の損傷が刻まれている。それでも、動きに衰えは見えなかった。
正面の感覚器がゆっくりと左右へ揺れる。
幾つもの突起が壁面や床、天井をなぞるように震え、周囲の構造や遮蔽物、配置された隊員たちを探っている。
一歩、前へ出した脚が止まった。
感覚器が再び揺れ、前脚が着地点を僅かに修正する。最も進みやすい経路を選び直しているかのようだった。
誰一人、引き金を引かない。
発砲の許可が下りるまでは撃たない。その規律だけが、張り詰めた空気を支えていた。
「射撃開始」
命令と同時に、集光銃の光条が通路を走る。だが、敵性個体は光条を避けるように進路を変え、捕獲剤の散布域を迂回して進んできた。
三本の脚が、粘着面の輪郭をなぞるように着地点を変えている。
「……嘘でしょう」
バレットの口から、思わず声が漏れた。
わずか数分前には捕獲剤に捉えられていた個体が、今はそれを避けながら進んでいる。
歩幅、踏み込みの角度、重心移動。そのすべてが、前衛部隊との交戦記録とは一致しない。
敵は損傷へ適応しただけではない。一度拘束された経験そのものを、行動へ反映させていた。
バレットは一瞬、次の命令を発するまでに間を置いた。
戦術統制個体としては、明確な遅延だった。
敵は粘着面の輪郭を認識している。だが、次の一歩を修正する瞬間だけは、回避軌道の自由度が低下する。
右脚へ荷重が集まる。
「第二班、追加散布」
予備部隊が作動させた散布装置から、捕獲剤が一斉に噴き出した。
複数方向から降り注ぐ捕獲剤を避けきれず、敵性個体の一本の脚が粘着質に絡め取られる。
「対象の脚部を拘束!」
「畳み掛けなさい! 確実に動きを封じるのよ」
粘着弾が連続して放たれ、拘束された脚へ絡みついていく。
敵性個体が身を捩るたび、粘着質は床や壁へ引き延ばされ、残る脚の可動域まで奪っていった。
『バレット、状況報告を』
通信越しにヴァイスの声が届く。
「拘束は進行中。完全停止を確認後、修正座標を送るわ」
『了解。周辺隔壁の閉鎖と電力の再配分は完了している』
「わかったわ」
二人の間に、それ以上の確認は必要なかった。
「対象、停止しました」
報告を受け、バレットは脚部の変位と荷重分布を確認する。
敵性個体は全身を粘着質に覆われ、三本の脚のうち二本は完全に動きを失っていた。残る一本も、ごく小さく震えるだけだった。
「現在座標を送信。照準マーカーを修正して」
位置情報が射撃管制へ送られ、三方向の照準マーカーが敵性個体の胸部へ重なる。
通路全体の照明が、一瞬だけ暗く落ちた。艦内電力が集光砲へ集中している証だった。
バレットは無意識に武器の握りを確かめる。
右手の震えは収まっていた。恐怖が消えたわけではない。命令の邪魔にならない場所へ押し込めただけだった。
『照準修正完了。集光砲、目標を捕捉』
「総員後退。固定位置につきなさい」
防衛部隊が一斉に後退する。
「マグネットグリップ最大出力。相互に固定状態を確認しなさい」
隊員たちは壁面のグリップを掴み、隣接する者の状態を確認した。バレットは最後に全員の退避を確かめる。
敵性個体は、依然として粘着質の中に沈んでいた。その感覚器が、僅かにこちらへ向けられたように見える。
バレットの指が、強くグリップへ食い込んだ。
「固定良し――撃て」
『射撃要請を受領。集光砲、発射します』
三方向から放たれた光が、一点へ収束した。通路が白く塗り潰され、一拍遅れて衝撃が走る。
固定具に身体を預けた隊員たちが一斉に揺さぶられ、熱波が通路を吹き抜けた。
床の捕獲剤は瞬く間に炭化し、壁面は赤熱する。一部では軟化した金属が、溶け落ちるように垂れ下がっていた。
白く染まっていた視界が、ゆっくりと色を取り戻す。
隊員たちは誰一人、声を発しない。焼けた空気の中を、くぐもった警報音だけが一定の間隔で鳴り続けていた。
照射地点の先では外殻が消失し、暗い宇宙が口を開けている。降下する隔壁が、自動的に通路を閉鎖し始めていた。
バレットはモニターへ視線を向ける。
敵性個体の姿はない。熱源反応、生体反応ともに検出されず、残骸すら確認できなかった。
『対象の消失を確認。隔壁、緊急閉鎖』
管制の報告と共に、最後の隔壁が閉じる。
『こちらヴァイス。照射ノイズの減衰を確認。状況を報告してくれ』
「照射完了。対象反応なし。照射区域の閉鎖も完了したわ」
『了解。迎撃部隊は所定の経路で帰還。各員、ご苦労だった』
通信が途切れ、隊員たちの間に張り詰めていた緊張が、ようやく僅かに緩んだ。
「……終わった、のでしょうか」
誰かが、独り言のように呟く。バレットは答えなかった。
モニターに映っているのは、焼け落ちた通路だけだ。
――それでも。バレットはなお、照射地点から視線を逸らさなかった。




