第29話 - 守り続けた理由
休憩を挟むことにした私たちは、場所を、艦長室の隣に設えられた私室へと移した。
窓のない小さな私室には、柔らかな間接照明だけが灯っていた。
程なくして、ミーシャが軽食を載せたワゴンを押しながら現れる。彼女がわざわざ席を外し、支度を整えてきてくれたのだろう。テーブルの上には、湯気の立つ紅茶と共に、一口サイズに切り分けられたサンドイッチが並べられていく。
「随分と、重い話が続いたな」
「ええ。少し、心を落ち着ける時間も必要かと」
ミーシャがそう言って、私の前にカップとサンドイッチの皿を置く。芳しい香りが鼻先をくすぐる。パンの間に挟まれた具材からは、微かに香草の匂いが漂っている。
「随分と手が込んでるじゃないか」
「こういう時こそ、少しでも心を休める工夫が重要なのですよ。食事を取ることも、温かな飲み物を口にすることも、決して目的のない行為ではありませんから」
ミーシャは柔らかく笑うと、空いた席へ静かに腰を下ろした。その穏やかな表情だけで、張り詰めていた空気が少し和らぐ。
クレイは私の正面に座り、周囲へと気を配っている。ベルは壁面ディスプレイの隅に腰掛けたまま、珍しく黙り込んでいた。普段なら真っ先に軽口の一つも叩いてくるはずの彼女が、今は何かを考え込むように視線を伏せている。
私は手にしたカップを傾け、紅茶の温かさを喉の奥に流し込む。あの艦の最期を思うと、こうして安穏と茶を飲んでいることが、どこか申し訳ないような気さえした。
だが、休むべき時に休まなければ、続く判断を誤ることにもなりかねない。そう自分に言い聞かせ、サンドイッチへと手を伸ばす。
「最後まで、命令を守り続けていたのですね」
不意に、ミーシャが静かな声で呟いた。先ほど会議室で発した言葉と同じように、その声音には普段の彼女にはない沈みが残されていた。
「ああ。戦いが終わったことさえ知らずにな」
「命令を受けた以上、それを全うしようとするのは、私たちバイオロイドにとって当然のことです。ですが……」
そこで言葉を切り、ミーシャは手元のカップへと視線を落とした。紅茶の表面に、間接照明の光が小さく揺れている。
「何だ?」
「いえ。最後まで役目を守り続けられたことを、幸せだったと言ってよいものなのか、それとも、命令から解放されることなく停止していったことを悲しむべきなのか、私にはわかりません」
ミーシャの口から、そのような迷いが語られるとは思わなかった。いつも他者の心を汲み取り、自然に寄り添う彼女でさえ、あの結末をどのように受け止めるべきか決めかねているのだろう。
「クレイは、どう思う」
声を向けると、私の正面に座るクレイは、少し考えるような仕草と共に僅かに視線を伏せた。
「命令を遂行することは、我々の基本的な存在理由です。従いまして、彼らが最後まで命令を放棄しなかった点については、行動原理として理解できます」
「ふむ……お前らしいと言えばお前らしい答えだが」
「ですが、それだけで説明できるものではない、とも考えております」
予想していなかった言葉に、私はクレイへと視線を向ける。
彼女はいつもと変わらぬ真っ直ぐな姿勢だったが、その視線は先ほどまでよりも僅かに遠くへ向けられているように見えた。
「通信が途絶し、指揮系統が失われ、命令を解除する者も存在しない。その状況下において、彼らに残されていたのは最後に与えられた命令だけです。しかし、長期にわたって施設を維持し、あの女性の生命を守り続けるためには、単純な命令遂行以上の判断が必要だったはずです」
「命令されたから、それだけで続けられたわけじゃない、と?」
「はい」
クレイは静かに頷いた。
「我々にも自己を保全する原則があります。それに反する命令が与えられた場合、その命令が本当に遂行すべきものなのか、自ら判断する機能を有しています」
「つまり……」
「彼らは、その命令を発した者を従うべき上位権限者と認識し、そして、その命令を守るべき価値を持つものだと、自ら判断したのでしょう」
私は培養施設で発見された光景を思い返していた。機能を停止したバイオロイドたちが、眠る女性を守るように周囲へ配置されていた映像記録。
あれは命令に縛られていただけではない。彼らは、自らそう在ることを選び続けたのだ。
「なら、彼らがそう判断するに足る何かがあったということか……」
「少なくとも、私はそう考えます。」
クレイは穏やかな声で続ける。
「限られた電力と資材を配分し、自らの維持より保護対象を優先する。その判断を数百年積み重ねるには、命令だけでは足りません」
私はしばらく黙って考える。確かに、彼らの結末は悲惨だった。
「……そう言えば、今まで深く考えていなかったが」
「何でしょうか」
「クレイは、どうして千年近くも稼働していられたんだ? 他の個体は、そこまで長くは保たないだろう」
ミーシャにちらりと視線を送り、クレイへと戻す。クレイは私の疑問の声を受け取ると、静かに視線を伏せた。そして、静かに話し始める。
「……バイオロイドは、長く稼働するほど多くの記憶を蓄積します。経験は判断を支える一方で、自我と自己認識を肥大させ、やがて思考の均衡を崩します。そのため、定期的な記憶の整理が必要になります」
「記憶を消すんだったか」
「通常は必要な知識や人格を維持したまま、蓄積された経験を整理します。人間で言えば、思い出を記録へ移し、自らの内側から遠ざける行為に近いかもしれません」
「お前は、それをクレイドルの中で行っていると?」
「はい。私は生体脳の一部を中枢演算コアと接続しています。定期的に経験や記録を艦へ移し、必要な時に参照することで、自我の肥大化を抑えています」
「じゃあ、お前の人格も中枢演算コアにあるのか」
「いいえ」
その否定だけは、普段より僅かに早かった。
「私の人格は、この身体にあります」
クレイは自らの胸元へ、そっと手を添えた。
「中枢演算コアに保管されているのは、私が見たもの、聞いたもの、経験した出来事の記録です。それらを参照すれば、過去の私が何を考え、何を選んだかを知ることはできます」
「だが、それは今のお前そのものじゃないと……」
「はい」
クレイは静かに頷いた。
「千年前の記録を読み返したとしても、その時の感情を完全に取り戻せるわけではありません。私は、その記録を現在の私として受け止め直します」
「それでも、同じクレイなんだろう?」
問い掛けると、クレイはすぐには答えなかった。わずかな間を置いて返された言葉には、普段の彼女には珍しい曖昧さがあった。
「私はそう考えています。ただ、記憶を整理する度に何かを失っている可能性はあります。過去の私と今の私が完全に同じ存在だと証明する方法もありません」
「それが怖いのか」
クレイの視線が、僅かに揺れた。
「……恐怖と表現すべきかは分かりません」
そう答えた後、彼女はほんの少しだけ目元を和らげた。
「ですが、マスターが今の私をクレイと認識してくださるのであれば、少なくとも私は、自分が途切れてはいないと考えることができます」
胸の奥を、不意に掴まれたような気がした。
「なら、心配する必要はないな」
「そうでしょうか」
「ああ。記録の中のお前がどうだったかは知らないが、俺が知っているのは、今ここにいるお前だ」
クレイは私を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。やがて、ほんの僅かに笑みを浮かべる。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
「中枢演算コアが無事である限り、私は記憶を整理し続けることができます。生体部品を維持するエネルギーさえあれば、寿命と呼べるものも、ほとんど存在しません」
「ほとんど?」
「クレイドルが失われれば、私は通常のバイオロイドと変わりません」
その言葉は淡々としていた。だが、クレイの手はまだ胸元に置かれたままだった。
「だから、お前はクレイドルを守ってきたのか」
「それも理由の一つです」
クレイは静かに室内を見渡した。
「クレイドルには、私の記録があります。私が見送った者たちの記録も、守れなかった者たちの記録もあります」
そして最後に、私へ視線を戻した。
「今は、マスターと過ごした記録もあります」
その表情は、いつもとほとんど変わらなかった。それでも、その言葉が単なる事実の報告ではないことだけは、私にも分かった。
「私は、この艦を失いたくありません」
それは命令でも、管理者としての義務でもなかった。クレイ自身が口にした、紛れもない望みだった。
「マスター」
ミーシャの声に顔を上げると、彼女は穏やかな微笑みを浮かべていた。
「温かいうちに、もう少し召し上がってください。考えることも大切ですが、お食事が冷めてしまいます」
「ああ、そうだな」
促されるまま、残っていたサンドイッチを手に取る。先ほどまでよりも、僅かに味が分かるようになっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
紅茶を半分ほど飲み終え、サンドイッチを食べ終えようというところで、ベルがふと顔を上げた。
壁面ディスプレイの隅に腰掛けたベルは、先ほどからほとんど身じろぎもせず、どこか一点を見つめ続けていた。
時折、目の前に小さなウィンドウが幾つも開いては消えていく。
普段の彼女なら、興味を失えばすぐ別の話題へ飛びつく。だが今日は違う。映像の一場面を見つめては首を傾げ、また少し戻して見直す。その繰り返しだった。
「ベル」
私が声を掛けると、彼女は小さく肩を震わせた。
『えっ? あ、はい。どうしました? 艦長さん』
「さっきから何を見ているんだ?」
ベルは困ったように頬を掻く。
『何か引っ掛かるんです。でも、その引っ掛かりが何なのか、自分でも分からなくて』
「交戦記録か」
『はい。敵の動きとか、体の形とか……ずっと見てると、何か見覚えがある気がするんですよ』
そう言うと、彼女は再び映像へ視線を戻した。やがて、一つの映像を停止させたまま、彼女は腕を組んだ。
『……あれ?』
その声色が変わった。違和感が、確信へ変わる瞬間だった。ベルは何かを思い出すように視線を宙へ泳がせると、不意にこちらを振り向いた。
『……そういえば、艦長さん』
「どうした」
『ザルツさんが回収した、あの謎の金属塊。機関部の破壊区画で見つかったやつです』
その言葉に、私は紅茶を飲む手を止めた。
機関部の崩壊区画で回収された、正体不明の金属塊。折り畳まれた脚にも見える突起に焼け焦げたような黒い外殻。
当初は、破壊された設備の一部か、未知の機械部品の類だと考えていた。形状こそ奇妙ではあったものの、動く様子もなく、エネルギー反応も検出されなかったことから、危険性は低いと判断し、隔離区画へ保管したままになっている。
「……確認しておいた方がいいな」
私がそう口にすると、ベルも小さく頷いた。
『私も、それがいいと思います』
先ほどから交戦記録を何度も見返していた彼女が、ようやく掴んだ違和感。その正体が、あの金属塊へと繋がっているのだとすれば、単なる思い付きでは済まされない。
「クレイ、ザルツとの通信を開いてくれないか」
「かしこまりました」
「ベル。ノアをこちらへ呼べるか。先ほどの交戦記録と照合したい」
『……すぐに呼びます』
ベルの姿がディスプレイ上で小さく揺らぎ、通信ウィンドウが展開されていく。
私も手にしていたカップを静かにテーブルへ戻す。陶器が受け皿へ触れる小さな音だけが、妙に大きく耳へ残った。
皿に残る一切れのサンドイッチだけが、この場の緊張とはあまりにも不釣り合いに見えた。




