第17話 - 雲海の狭間で
巨大ガス惑星ヘリオンへ接近するにつれ、星空に浮かぶ一つの天体だったそれは、徐々に天頂そのものを覆う存在へと変わっていった。
今では観測窓の大半が青灰色の雲海で埋め尽くされ、その向こう側に惑星の全貌を見ることはできない。
青灰色の雲海が幾重にも重なり、その奥では惑星規模の嵐がゆっくりと渦を巻いていた。雲の流れは数千キロ単位で連なり、地平線の彼方まで途切れることなく続いている。
表面に浮かぶ巨大な渦は地球の大陸にも匹敵する大きさを持ち、その周囲では幾筋もの白い雲帯が複雑に絡み合っていた。
時折、雲海の奥深くで閃光が走る。
雷だ。
しかし地球の雷とは規模が違う。雲層の深部から空へと伸びるその光は、まるで大陸そのものが発光したかのように見えた。
一時間前まで見えていた巨大な嵐が、今では明らかに視界の隅へと位置を変えている。その変化だけで、ヘリオンの嵐がどれほどの速度で移動しているのかがわかる。
さらに視線を上げれば、惑星を取り巻く衛星群が見えた。小さなものでも数百キロ級。大きなものは小惑星と呼ぶには大き過ぎる。それらが幾重もの軌道を描きながらヘリオンの周囲を巡っていた。
その光景の前では、クレイドルでさえ塵にも等しい。そこまでを視界に捉えた私は、静かに息を呑んでいた。
これほどまでに巨大な天体を目の前にすると、自分という存在がどれほど小さいものなのか嫌でも理解させられる。
指先の先まで、その圧倒的な質量感に押し潰されそうな錯覚すら覚えてしまう。
頭では理解していたつもりの「巨大」という言葉が、これほどまでに空虚に感じられたことはなかった。
そんな感慨を打ち消すように、ブリッジへ報告が響く。
「ヘリオン重力圏外縁部へ到達。軌道突入進路を維持」
「補助エンジン各系統、異常無し」
別のオペレーターが間を置かず報告を引き継ぐ。
「試験運転結果を最終反映。推力偏差〇・〇二パーセント。振動値、熱変位共に許容範囲内です」
報告と同時に補助モニターへ最終試験結果が表示される。緑色で埋め尽くされた数値の列が、補助エンジンに関する全項目が正常範囲内へ収束したことを示していた。
私は小さく頷く。
ヘリオンへ向かう航路上で行われた補助エンジン試験も、無事に終了していた。
一次試験では第三推進系統に僅かな推力偏差が発見され、機関員達は解析と補正を繰り返したと聞いている。
二次試験では高出力運転時の振動解析。三次試験では緊急停止試験。その度に大量のデータが集められた。
休みなく続けられたであろうその作業の様子を、私は直接見ていない。
だが、報告書の行間からは、彼らが費やした時間の重みが十分に伝わってきた。今表示されている数値は、その積み重ねの結果だった。
「第三推進系統、安定化確認」
「熱交換器負荷率、基準値内」
「補助動力炉、出力同期完了」
各部署から報告が続く。
試験監視用として優先表示されていた各種モニターは順次通常監視画面へ切り替わり、オペレーター達も確認項目を次の工程へ移していく。
指揮席ではクロムが航路図を見つめていた。
青白い光に照らされた横顔は普段と変わらず無表情だ。それでも、長時間続いていた監視が一区切り付いたことで、張り詰めていた肩から僅かに力が抜けたように見えた。
「実運用に問題は無いと判断します」
報告は簡潔だった。ただ、これまで一つ一つ積み重ねてきた試験結果を踏まえた、確信に満ちた結論だった。
「ご苦労だった。そう、ザルツに伝えてくれ」
「承知しました」
クロムは短く答える。
補助エンジン試験に関する監視項目が、各コンソールから順次通常監視へ切り替わっていく。
試験用に割り当てられていた処理能力も解放され、オペレーター達は何事もなかったかのように、それぞれが次の業務へ移っていった。
長らく停止していた補助エンジンは、ようやく全ての試験工程を終え、本来の役目を取り戻したのである。
「重力同期完了。回収開始地点へ接近します」
オペレーターの報告と共に、航路図上のクレイドルを示す光点がゆっくりとヘリオンへ近付いていく。
「採鉱ブロックより通信です」
通信担当の声と共に空中へ通信ウィンドウが展開される。映し出されたのはザルツだった。
その背後では作業員達が慌ただしく動き回り、大型機材が絶えず稼働している。コンテナを運搬する車両が行き交い、天井クレーンがゆっくりと資材を吊り上げていた。
金属同士がぶつかり合う音と怒号にも似た指示の声が、通信越しにも生々しく伝わってくる。
『こちら採鉱ブロック! おい、そこ! 誘導索が絡まってるぞ! 先にそっちを片付けろ!』
怒鳴り声が通信越しにも響く。作業員達が駆け出していくのが見えた。
『……失礼しました』
ようやくこちらへ顔を向ける。
『ガス回収設備の最終点検完了です』
相変わらず腹の底から響くような声だった。背後では今も機材の駆動音が鳴り続けている。ブリッジの静かな空気とは対照的に、向こう側はまるで戦場のような慌ただしさだった。
『分離設備、圧縮設備共に正常。貯蔵タンクも正常。配管類の漏れも無し。回収作業、いつでも行けます』
「了解した」
クロムが短く応じる。
「ガス回収シークエンスへ移行」
直後、各部署から復唱が返ってきた。
「ガス回収シークエンス開始」
「姿勢制御系、回収モードへ移行」
「採取高度固定」
「ガスコレクター係留索、ロック解除」
クロムの指示に従い、各オペレーターが一斉に担当コンソールを操作する。ブリッジ中央に表示された航路図では、クレイドルを示す光点がゆっくりとヘリオン上層大気に沿うように移動していた。
窓の向こうでは、青灰色の雲海が絶え間なく流れている。あまりにも巨大過ぎるせいで距離感が狂うが、あの雲の一つ一つが大陸規模の気象現象だった。
「ガスコレクター展開」
クロムの指示と同時に、船体各所で重い作動音が響き始めた。低い唸りが船体を伝い、足元へ微かな振動を伝えてくる。観測窓の映像は外部カメラへ切り替わった。
クレイドル船底部の装甲板がゆっくりと左右へ開き、その内部から巨大な格納フレームが姿を現す。折り畳まれていた骨格は滑るように伸長し、枝分かれするように何本もの支持梁が宇宙空間へ展開されていく。
その姿は、まるで金属で造られた巨木が静かに枝葉を広げているようだった。
「第一フレーム固定」
「第二フレーム固定」
「展開率四十パーセント」
オペレーター達の声が続く。やがて先端部から銀色の薄膜が広がり始めた。薄膜は真空中で静かに張り詰め、照明やヘリオンからの反射光を受けて鈍く輝く。
何層もの収集膜で構成された巨大なガスコレクターである。その形状は、まるで帆の様だった。
もっとも、目的は風を受けることではない。
収集膜の表面には微細な電磁格子が張り巡らされており、帯電させることでヘリオン上層大気中の荷電粒子を効率よく捕捉する仕組みになっている。
捕集されたガスは膜内部の微細流路を通って船体内部へ送られ、分離設備で成分ごとに精製される。その中から三重水素やヘリウム三が選別され、圧縮タンクへと蓄えられていく。
最後の収集膜が所定位置へ固定されると、外部カメラの映像がブリッジ中央へ拡大表示された。
そこには、巨大な帆を曳くクレイドルの姿が映し出されていた。
全長一キロメートルに及ぶ船体の後方には、銀色の収集膜が幾重にも広がっている。その向こうでは、青灰色の雲海を湛えたヘリオンが、果ての見えない壁のように視界を埋め尽くしていた。
幾多の戦闘を潜り抜け、外殻の至る所に傷を刻んだ船体。その背に、新たに展開された真新しい銀色の膜が静かに広がっている。
その姿は、巨大惑星という果てなき海を渡る、一隻の帆船そのものだった。
「全コレクター、展開完了。全系統正常」
「電磁格子励起開始。ガス流入予測三十秒前」
数秒の静寂。誰もがモニターを見つめていた。やがて回収量を示す数値がゆっくりと増加を始める。
「ガス流入を確認。分離設備正常稼働」
「ヘリウム三濃度、予測範囲内。回収率上昇中」
「回収シークエンス正常に推移しています」
報告を聞きながら、私は小さく息を吐いた。ここまで大きな問題は発生していない。
ブリッジ中央に浮かぶ航路図では、クレイドルを示す光点がヘリオン上層をなぞるように移動している。
周囲のモニターには回収率やガス組成の分析結果が次々と表示され、各オペレーターは担当する数値を淡々と監視し続けていた。
補助エンジンの試験運転を終えたことで、監視項目は平常運用へ移行している。
それでもブリッジに流れる報告の途切れることはなく、回収作業は予定通りの手順で着実に進められていた。
「予定通りですね、マスター」
傍らのクレイが言う。彼女は端末へ視線を落としたまま、回収率の推移を確認していた。
「ああ。ここまで順調過ぎるくらいだ」
『艦長さん! その台詞はあまり良くありません!』
突然、ベルが割り込んできた。いつの間にかホログラムの彼女は航路図の上へ腰掛けている。
「何故だ?」
『フラグって奴です!』
ベルはびしりと私を指差した。
『責任者がそれっぽい事を言うと、決まって何か起こるんですよ!』
「お前は私を何だと思ってるんだ……」
『んー……物語の主人公ですかね?』
ベルは首を傾げながら答えた。その横でミーシャが口元へ手を添える。
「ふふ、否定できませんね」
会話はブリッジ中へ流れていた。数名のオペレーターが一瞬だけ視線をこちらへ向けるが、それも束の間、すぐに各自の監視画面へ意識を戻していく。
クレイドルを再始動させたばかりの頃であれば、そのような反応さえ見られなかっただろう。管理個体同士の他愛ないやり取りに一瞬だけ注意を向ける程度の余裕が、今の彼らには生まれていた。
「艦長」
そんなやり取りをよそに、クロムが航路図から視線を外さないまま口を開いた。青白い光で描かれた航路図が、その横顔を静かに照らしている。
「何だ?」
「実際、予期せぬ事態は起こり得ます」
「お前まで乗っかるのか……」
「統計上の話です」
真顔だった。冗談を言ったつもりはないらしい。
ベルは「ほら見ろ」と言わんばかりに腕を組み、ミーシャは堪え切れないように小さく笑う。
生真面目なクロムは、本人にそのつもりがなくとも、ときおり場を和ませる。この一年で何度も目にしてきた光景だった。
私はたまらず額を押さえ、小さく息をついた。ブリッジでは変わらず各部署から報告が流れ続けている。
ヘリオンの雲海を目前にしながらも、オペレーター達は担当する作業を淡々と進め、その合間を縫うように、管理個体達の他愛ないやり取りだけが静かに流れていた。
だからこそ、その報告は誰の耳にも強く響いた。
「近傍宙域担当の観測班より報告」
観測席のオペレーターの声。その一言だけで、ブリッジの空気が僅かに変わった。各コンソールへ向けられていた視線が上がる。ガス回収率の監視を続けていたオペレーター達も、一瞬だけ手を止めた。
先ほどまで流れていた和やかな空気は消えていた。代わりに漂い始めたのは、未知への警戒だった。誰もが口を閉ざしたまま、次に発せられる言葉を待っている。
「内容は?」
クロムが振り返る。観測席のオペレーターは端末を操作しながら答えた。
「ヘリオン周辺で確認されていた人工物についてです」




