第16話 - 変化する日々
――農業区。
かつて静寂だけが支配していたこの場所には、穏やかな生命の営みが戻り始めていた。
放牧エリアでは青々とした草が一面に広がり、再び水が流れ始めた水路の周囲では、小さな昆虫が羽を休めている。遠くでは数羽の家禽が地面を啄み、その向こうでは数頭の牛がゆったりと草を食んでいた。
いずれも、遺伝子バンクに保存されていた系統から復元されたものだった。
飼育担当のバイオロイド達が飼料を補充し、健康状態を確認している。少し離れた場所では、別のバイオロイドが放牧地の土壌を採取し、生育状況を端末へ記録していた。
扉を隔てた先にある水耕栽培区画にも、植物と水の匂いを含んだ湿った空気が満ちていた。
当初は小さな苗しかなかった場所には、栽培棚が幾列にも並び、その間を灌水設備の細い配管が縫うように走っている。人工照明の白い光を浴びた若い苗は、一枚一枚の葉を静かに広げていた。
管理バイオロイドたちは、苗の植え替えや灌水設備の点検を進めている。その間を、ミーシャがゆっくりと歩き、一つひとつの作業へ視線を配った。
「第三ベンチの培地交換は予定通り進んでいますか?」
「はい。現在七割まで完了しています」
「交換後は養液濃度も確認してくださいね。記録はあとで私がまとめますから」
「了解しました」
返事を受けると、ミーシャは別の栽培棚へ歩み寄った。そこでは一体のバイオロイドが、収穫した葉物を選別している。
「傷んだ葉は無理に残さなくて大丈夫ですよ。品質を優先しましょう」
「承知しました」
穏やかな口調ではあったが、指示は明確だった。誰かを急かすことはない。それでも作業が滞ることもない。
ミーシャが管理しているのは、植物だけではなかった。農業区は彼女が受け持つ区画の一つに過ぎない。
居住区や福利厚生設備、生活インフラの維持管理。人とバイオロイドが不自由なく暮らせる環境を整えることこそ、施設管理官であるミーシャに課せられた本来の役目だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
腕に着けた端末から、小さな電子音が鳴った。
ミーシャが画面へ視線を落とすと、医療区画の管理バイオロイドから支援要請が届いていた。
『生体培養室です。生体部品の培養液の残量が規定値を下回りました。次回交換分に不足が生じています』
送られてきた情報には現在の在庫量と消費予測が表示されている。ミーシャは内容を確認すると、すぐに応答した。
「分かりました。精製施設から補充を手配します。交換予定時刻までには届けますので、そのまま作業を進めてください」
『了解しました』
通信を終えると、近くで作業を行っていたバイオロイドへ声を掛けた。
「精製施設で培養液を二百四十リットル準備してください。完成後は医療区画の生体培養室へ搬送をお願いします」
「了解しました」
「搬送後は原材料の在庫も確認してください。不足があれば、製造計画も更新しておいてくださいね」
「了解しました」
指示を受けたバイオロイドは一礼すると、農業区の奥に設けられた精製施設へ向かって歩き出した。
農業区にあるのは植物や動物だけではない。
栽培に用いる養液の調製設備に加え、生体培養に使用する培養液や各種試薬を製造する設備も併設されている。
これらは共通の精製プラントによって製造され、用途に応じて成分を調整した後、農業区や医療区をはじめとする艦内各区画へ供給されていた。
今度は厨房から通信が入る。
『本日の昼食の準備が完了しました』
調理担当のバイオロイドが報告する。ミーシャは献立表へ目を通した。
農業区で収獲された鶏肉と香草、葉物野菜を取り入れた、現在のクレイドルで用意できる最善の内容だった。
「ありがとうございます」
ミーシャは穏やかに微笑む。
「昨日のお食事は、とても美味しかったと、マスターからお言葉をいただきました」
『評価を記録しました。献立改善の参考とします』
昨日は、クレイドルの復旧が始まって以来の新鮮な食材を用いた食事を提供できた日だった。
限られた設備と収穫量の中で、厨房では調理方法を繰り返し見直しながら、改善を積み重ねてきた。その成果が、ようやく形になり始めていた。
「ですが、これからが始まりです」
「毎日、マスターや皆さんに良いお食事をお届けできるよう、これからもお願いします」
『了解しました』
通信を終えると、ミーシャは今日の対応内容を端末へ記録した。
医療区への培養液補充、居住区設備の点検、厨房への連絡事項。更新された予定表には、この後も幾つもの作業が並んでいる。
それでも、大きな遅れはなかった。農業区を中心に、艦内環境は少しずつ、往時の役割を取り戻し始めている。
艦橋へ向かうためトラムリフトへ向かおうとした、その時だった。
「ミーシャ……少し良いでしょうか?」
聞き慣れた声に振り返ると、そこにはクレイが静かに立っていた。
「クレイ統括官。どうされましたか?」
ミーシャは柔らかな笑みを浮かべる。だが、クレイはすぐには言葉を返さなかった。何かを考えるように、わずかに視線を伏せている。
普段の彼女には珍しい様子だった。
「少し……相談したいことがあります」
「もちろんです」
その一言に、ミーシャは穏やかに頷いた。腕の端末を操作し、現在進行中の作業に変更がないことを確認すると、予定表を一つ更新した。
「この後の対応は予定通りお願いしますね」
「了解しました」
近くにいたバイオロイドへそう告げると、相手は静かに一礼する。それを見届けたミーシャは、クレイへ向き直った。
「では、参りましょう」
二人は並んで歩き出し、農業区を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
二人は並んで通路を歩き始めた。農業区を離れるにつれ、栽培設備の駆動音は次第に遠ざかり、代わって空調設備の低い作動音だけが静かに響く。
クレイは何度か口を開きかけては閉じる。どうやら、すぐには言葉がまとまらないようだった。何も促すことなく、ミーシャはクレイの歩調に合わせて歩き続ける。
しばらく歩いたところで、通路脇の自動扉の前に立ち止まった。
「こちらでお話ししましょう」
扉が静かに左右へ開く。
その先には、居住区に設けられた共用ラウンジが広がっていた。壁際には観葉植物や書架が並び、中央にはソファと低いテーブルがゆとりを持って配置されている。利用者の姿はなく、室内には空調の微かな作動音だけが流れていた。
ミーシャは窓際のソファへ腰を下ろし、向かいの席をそっと示す。
「クレイ統括官……いえ、ここはクレイさんとお呼びすべきでしょうね。改めて、お話を聞かせてくださいますか?」
クレイも静かに腰を下ろした。短い沈黙が流れる。膝の上へ視線を落としたまま、クレイは何度か言葉を探すように唇を動かした。
「……どこからお話しすればよいのか、分かりません」
普段の彼女には珍しい、僅かな迷いを含んだ声だった。
「構いません。思いつくままで」
ミーシャは穏やかに微笑む。その言葉に背中を押されるように、クレイは小さく頷いた。
「昨日、マスターと夕食をご一緒しました」
ようやく見つけた糸口を手繰るように、その一言が静かに零れる。
ミーシャは昨日の食卓を思い返した。
マスターに半ば強引に席へ着かされ、戸惑いながらも同じ食卓を囲んでいたクレイ。その様子が鮮やかに脳裏へ蘇る。
「では、その時のことを聞かせていただけますか?」
問い掛けに、クレイはすぐには答えない。昨日の記憶を一つずつ辿るように目を伏せ、静かに口を開く。
「料理は、美味しいと感じました」
「ふふ、マスターは、とても嬉しそうに召し上がっていましたね」
「はい。私にとっても、穏やかな時間だったと認識しています」
クレイの視線は自然と宙を彷徨う。昨日の食卓を一つずつ思い返しているのだろう。食事の時間までは、言葉にできる。だが、その先へ進もうとすると、言葉が止まってしまうそんな様子だった。
「そのことを、何度も思い返していました」
そこで一度言葉を切る。
「原因を分析しましたが、結論は得られませんでした」
淡々とした口調は変わらない。しかし、その声には普段にはない戸惑いが滲んでいる。
「業務中にも、理由もなく食卓の様子が頭に浮かびます」
ようやくクレイはミーシャへ視線を向けた。静かに首を横へ振る。
「これまで、このような経験はありません」
ミーシャはすぐには答えなかった。
その言葉を静かに受け止めるように小さく視線を伏せる。やがて柔らかな笑みを浮かべた。
「それは、とても良いことだと思います」
クレイは僅かに首を傾げる。
「良いこと、ですか」
「ええ」
ミーシャは静かに頷いた。
「私たちバイオロイドも、本来は人と同じように、様々なものを感じ取れるように造られていると、私は思っています」
クレイは黙って耳を傾ける。
「ですが、人類を支える存在として働く以上、その多くは任務の妨げにならないよう抑えられてきました」
ミーシャは穏やかな表情を崩さない。
「特に外宇宙を航海する航宙船では、感情の揺れによる判断の遅れが、多くの命に関わりますから」
短い沈黙が流れる。クレイはゆっくりと視線を落とした。
「では、この変化は……」
「抑えられていたものが、少しだけ、表へ出てきただけなのかもしれませんね」
クレイはしばらく考え込むように沈黙した。
「ですが、私はこの変化を、どう受け止めればよいのか分かりません」
「そうですね……」
ミーシャは少し考えるように黙り込んだ。
「それでしたら、マスターともっとお話しをされてみてはいかがでしょう」
「マスターと、ですか」
クレイは意外そうに顔を上げる。そんな彼女を見つめながら、ミーシャは優しく頷いた。
「はい。クレイさんは、お気付きではないかもしれませんが……」
そこで言葉を区切ると、クレイの顔をまっすぐ見つめた。
「マスターとお話しされている時のクレイさんは、普段よりずっと表情が豊かですよ」
その言葉が終わるより早く、クレイの首が小さく横へ振られた。
「そのような事実はありません」
返答には迷いがなかった。
先ほどまで自分の変化をどう受け止めればよいのか分からないと悩んでいた人物とは思えないほど、即座の否定だった。
「ふふ。本当ですよ」
「私も、簡単に正解が導き出されるとは思っていません」
ミーシャは一度言葉を切り、窓の外へ静かに視線を向けた。
ラウンジの向こうには、静かな通路が続いている。行き交うバイオロイドたちの姿を眺めながら、ゆっくりと息をつく。
やがて、穏やかな微笑みを浮かべたままクレイへ視線を戻した。
「でも、人には誰かと関わる中で、初めて気付くことがあるといいます。それはきっと、私たちも同じなのではないでしょうか」
クレイは何も答えなかった。視線を落としたまま、しばらく動かない。ミーシャには、その言葉を胸の内で静かに反芻しているように見えた。
やがて、彼女は小さく頷く。
「……そうしてみます」
その返事は、答えを得た者のものではない。もう少し考えてみようと決めた者の、静かな声だった。
クレイはゆっくりと立ち上がり、ミーシャへ向き直る。
「相談に乗っていただき、感謝します」
深く一礼する。ミーシャも穏やかな笑みを浮かべたまま、礼を返した。
「お役に立てたのでしたら、嬉しく思います」
クレイはもう一度頷くと、ラウンジの扉へ向かった。自動扉が静かに左右へ開き、白い照明に照らされた通路が姿を現す。
クレイは振り返ることなく、そのまま静かに歩き去っていく。来た時と変わらぬ静かな足取りだったが、ミーシャにはその歩みが少しだけ軽くなったように見えた。
その背中を見送りながら、ミーシャは小さく微笑んだ。




