第13話 - 航路を司る者
トレーズ星系のヘリオスフィア内縁部には、‶外殻鉱状帯〟と呼ばれる広大な岩石地帯が存在している。
無数の氷塊や岩塊が、それぞれ異なる速度と軌道を描きながら恒星系の外周を巡るその領域は、遠目にはトレーズ星系を取り囲む巨大な外壁のようにも見えた。
窓の外は、大小さまざまな岩塊が視界を埋め尽くし、遠近感を失わせるほど巨大な岩塊の影を、細かな氷片が帯のように横切っていく。
時折、軌道の交差した岩石同士が衝突しているのか、遠い彼方で白い閃光が弾け、無音のまま消えていった。
私がクレイドルの中で目覚めたあの日、船は既にこの岩石帯の縁へ差し掛かっていた。
それが一年近くに及ぶ慣性航行を経た今では、どこを見ても大小の岩石が浮かび、何もない空間を探す方が難しいほどの密度となっている。
「目標岩塊までの距離、二千二百。相対速度、毎秒三・八メートル」
オペレーターの女性が放った声がブリッジに響いた。
「周辺質量体の軌道を再計算。接触予測域内に新たな対象はありません。進路クリア」
彼女の視線は、正面に浮かぶ複数のモニターへ固定されている。
中央の観測画面には、今回の採掘対象となる百メートル級の岩塊が映し出されていた。黒褐色の表面には無数の亀裂が走り、その一部から、金属質を含むと思われる鈍い光沢が覗いている。
一見すると静止しているように見える。
しかし、外殻鉱状帯に存在する岩塊の一つひとつは、それぞれ異なる軌道を描いて移動していた。
大型の岩塊に隠れていた小石が、突然こちらの進路へ現れる可能性もある。遠方で生じた衝突によって、軌道を変えた破片が飛来することもある。
慣性航行だけでこの領域へ深く入り込むのは、あまりにも危険だった。
当初の航行計画では、クレイドルは可能な限り岩石帯の外縁部を通過する予定だった。しかし、補助エンジンの復旧が現実的になったことで、その計画は変更されている。
外殻鉱状帯へ到達した後は一時的に航行を停止し、補助エンジンの試験運転に必要な資材と、今後の船体修復に用いる鉱物資源を採取する。
採掘によって発生する遅延は、補助エンジンが復旧すれば十分に取り戻せると判断されたためだ。
ただし、資源を採取するためには、鉱物含有率の高い岩塊へ接近しなければならない。
遠過ぎれば採掘艇の往復に時間が掛かる。近過ぎれば、岩塊との衝突や、周囲を漂う破片による船体損傷の危険が増す。
その微妙な均衡を保ちながら、全長一キロメートルを超えるクレイドルを誘導する。それが、航法管制を担当する男の仕事だった。
【D-4300-CRS-966】クロム。
航法管制、通信、情報処理を担当する管理個体だ。
ブリッジ機能の復旧と艦内情報網の再構築を主導し、現在ではクレイへ集中していた情報処理業務の多くを引き受けている。
短く整えられた黒髪。無駄を削ぎ落としたような鋭い顔立ち。長身というほどではないが、均整の取れた体躯と隙のない立ち姿は、常に即応態勢を維持する軍人を思わせた。
制服の襟は最上部まできっちりと留められ、袖や裾にも僅かな乱れすらない。着崩すという発想そのものを持ち合わせていないのだろう。
感情抑制機構の一部を緩和されているとはいえ、その表情は依然として乏しい。ザルツが感情を全身で表す人間だとすれば、クロムはその正反対だった。
何を考えているのか分からないわけではない。必要な情報と判断は、必ず言葉にする。ただし、そこに余計な感情を挟まないだけだ。
「目標まで千九百。相対速度、毎秒三・二メートル」
「接近速度を更に落とす」
ブリッジ中央に立つクロムが、球形モニターから目を離さずに命じた。
「艦首スラスター、反転噴射百三十秒。推力二十パーセント」
「了解。艦首スラスター、反転噴射百三十秒。推力二十パーセント」
別のコンソールに座る機関員が、指示を復唱した。
髪を下ろした幼さの残る男だった。彼は手元に浮かぶ球体状のホログラムへ指を走らせ、クレイドルを模した船体図を操作していく。
船首部分に配置された複数のスラスターが赤く点滅する。系統確認が完了するたび、その表示が一つずつ緑へ変わっていった。
「燃料供給正常。噴射準備完了」
「実行」
「反転噴射、開始します」
直後、足元から鈍い振動が伝わってきた。断続的に動いていた姿勢制御用スラスターとは異なる、低く力強い振動だった。
床から壁へ、壁から天井へ。
小さな震えがブリッジ全体へ広がり、観測窓の縁を僅かに揺らす。これまでの慣性航行では感じることのなかった、船が自ら動いているという確かな感覚。
正面モニターでは、塵や細かな破片が偏向シールドを掠めるたび、緑色の波紋が走っていた。
周囲を漂う岩塊の流れが、ゆっくりと変化していく。実際には岩石の軌道が変化しているのではない。クレイドルの速度が落ち、周囲との相対運動が変わっているのだ。
「残り六十秒」
機関員が告げる。クロムは表示される数値を無言で追い続けていた。
「相対速度、毎秒二・一メートル」
「推力を十五パーセントへ低下」
「了解。推力十五パーセント」
振動が僅かに弱まる。
「残り十秒。九、八、七――」
カウントが進み、やがて振動が完全に収まった。
「艦首スラスター停止」
「相対速度、毎秒〇・八メートル。規定値内です」
「船体姿勢、安定。目標岩塊との最接近距離、予定値を維持しています」
「周辺質量体の軌道に変化なし」
報告が続く。
「広域監視へ移行。採掘艇発進経路を確保せよ」
クロムの指示を受け、複数のオペレーターが同時に作業へ移った。
「広域監視へ移行します」
「採掘艇一番、二番、発進準備開始」
「ドッキングベイへ対象岩塊の組成データを送信」
「採掘予定地点を更新。危険領域を除外します」
先ほどまで機動管制に集中していたブリッジが、次の工程へ切り替わっていく。
停止したスラスターの状態を確認する者。採掘艇の航路を計算する者。岩塊表面の地形を解析し、接地可能な場所を探す者。
各個体が必要最低限の報告を交わしながら、割り当てられた作業を正確に進めていた。
騒がしくはある。しかし、そこに雑談や歓声はない。聞こえるのは機械音と、任務遂行に必要な声だけだった。
壁面を覆うホログラムモニターには、艦内各所の様子が映し出されていた。
ドッキングベイでは、採掘艇へ機材を積み込むバイオロイド達が動き回り、工業区では、回収した鉱物を受け入れるための精錬設備が運転を開始していた。
機関員の見詰めるモニターには使用したスラスターの温度と振動値が映し出されている。
無数の映像が次々と切り替わり、その光がブリッジ全体をせわしなく照らしている。かつて、この場所は静寂だけが支配する墓場のような空間だった。
機能を失ったコンソールが並び、暗闇の中で数少ないコンソールが自動操縦の文字を躍らせているだけだった。
今では、その面影を探すことすら難しい。ここに立っていると、クレイドルが確かに息を吹き返しつつあることを実感できた。
私はブリッジ中央へ歩み寄った。視線の先には、鋭い目つきのクロムが立っている。
「順調そうだな、クロム」
声を掛けると、クロムは即座に振り返った。
「これは艦長。気付かず、失礼しました」
踵を揃え寸分の狂いもない敬礼を行う。その動作は、あまりにも整い過ぎていた。
「いや、構わない。楽にしてくれ」
「はっ」
腕は降ろした。しかし、それ以外は直立不動のままだった。
「相変わらず固いな」
思わず苦笑が漏れる。
「何か問題がありましたか?」
「いや、姿勢の話だ」
「艦の姿勢に異常はありません」
「そういう意味じゃないんだが」
「承知しました」
本当に承知しているのかは分からない。以前より会話は成立するようになった気もするが、その変化は微々たるものだった。
「それより、補助エンジンの試運転をするそうだな」
「はい」
クロムは短く頷き、手元の端末を操作した。私達の前に、補助エンジンの立体模式図が浮かび上がる。
事故によって損傷していた箇所は全て修復され、燃料供給、冷却、制御、推力偏向の各系統が正常を示す緑色で表示されていた。
破損を示す表示が無数に点滅し、修理に必要な部品の多くが不足していた頃を思い出す。今、目の前にあるのは、その面影を残さないほど整った模式図だった。
「機関部における単独試験は完了しております」
クロムが説明を始める。
「燃料供給系統、冷却系統、推力偏向機構、制御系統の全てが基準値を満たしています。ただし、船体へ実際の推力を加える統合試験は、資源採取完了後に実施します」
「すぐに始めるわけではないのか?」
「現時点では鉱石採取を優先します」
模式図の横に、資材備蓄量が表示された。
「試験中に部品損傷が発生した場合、修復に必要な素材が不足する可能性があります。この宙域を離脱した後、同等の資源を確保できる地点は、当面存在しません」
「だから、先に備蓄を増やすのか」
「はい。必要資材を確保した後、第一次統合試験を実施します」
表示が切り替わり、試験工程が示される。
「初期出力は三十パーセント。推力偏差、異常振動、熱変位、船体構造への影響を確認します。問題が確認されなければ、五十パーセント、七十パーセントと段階的に出力を引き上げます」
「一気に動かす気はないんだな」
「必要のない危険を冒す理由がありません」
迷いのない答えだった。合理性を第一に据える思考は、クレイのそれによく似ている。
ただし、クレイが私個人の安全や生活まで含めて最適化しようとするのに対し、クロムが優先するのは、常に艦全体の安全と任務の遂行だった。
「まあ、お前がそう判断したなら間違いないだろう」
「恐縮です」
以前のクロムであれば、事実確認として頷くだけだったかもしれない。今は、僅かではあるが、こちらの信頼を向けられたことに対して言葉を返す。
表情には現れない。声の調子もほとんど変わらない。それでも、以前とは違う。
感情抑制機構を緩和した影響なのか。それとも、日々の任務や周囲との関わりの中で生まれた変化なのか。
その境界は、本人にも判別できないのかもしれない。
「試運転はいつ頃になる?」
「現在の採掘速度と備蓄量の推移から、一週間後を予定しています」
「一週間後か」
私は補助エンジンの模式図を眺めた。
「いよいよだな」
補助エンジンが本格的に稼働すれば、クレイドルは慣性だけに頼る航行から脱することができる。減速や加速、危険物の回避は、これまでとは比較にならないほど容易になる。
目的地までの航行期間も短縮できるだろう。窓の外を漂う無数の岩塊へ視線を向ける。
補助エンジンを取り戻したクレイドルが、この鉱状帯を掻き分けるように進む姿を思い浮かべた。
「こちらにおられましたか」
背後から、聞き慣れた声が届いた。
振り返ると、ブリッジの入り口からクレイが歩いてくるところだった。その歩調と姿勢には一切の乱れがない。
表情を見ただけで、あまり良い用件ではないことが分かった。
「何かあったのか?」
「何かあったのか、ではありません」
クレイは私の正面で立ち止まった。
「本日の予定は、既に端末へ送付しております。まさか、確認されていないのですか?」
そういえば、いくつか予定が入っていた気がする。工業区へ向かい、ザルツと話し、そのままクロムの様子を見に来た。
予定を確認した記憶はない。
「ああ……すまん。忘れていた」
クレイが小さく息を吐いた。
「スケジュールは予定通り消化していただかなくては困ります」
「何か急ぎの予定だったか?」
「第三居住区画の復旧確認、医療区画からバイオロイドの定期診断報告、食料生産設備の運用方針の承認が残っています」
「意外に多いな」
「全て、昨日の時点でお伝えしております」
「そうだったか?」
「お伝えしております」
同じ言葉を、今度は少しだけ強く繰り返した。感情抑制機構は緩和されていないはずなのだが、こういう時のクレイからは、明確な呆れを感じることがある。
「悪かった」
「謝罪は結構ですので、移動してください」
「容赦がないな」
「予定を忘れた方に配慮する必要性を認めません」
クロムも堅いが、クレイは別の意味で融通が利かない。
もっとも、私が予定を忘れるたびに、後の調整を行うのは彼女なのだ。文句を言える立場ではなかった。
「分かった、分かった」
両手を軽く上げ、降参の意思を示す。クレイの表情は変わらない。だが、私が素直に移動することを確認すると、僅かに肩の力が抜けたようにも見えた。
私はクロムへ視線を戻した。
「邪魔したな。引き続き頼む」
「お任せください」
クロムが再び敬礼する。私は軽く手を上げて応え、その場を離れようとした。
「行きますよ、マスター」
クレイはそう言うと、私の腕を取り、ブリッジの出口へ向かって歩き始めた。
「分かっている。そう強く腕を引くな」
掴まれた腕を軽く引き戻そうとするが、クレイの歩調は変わらない。結局、クレイに腕を引かれるまま、私はブリッジの出口へ向かうことになった。
背後では、クロムの声が再び響き始めていた。
「採掘艇の発進経路を最終確認。岩塊表面の破砕域を除外し、着陸地を確定せよ」
「了解しました」
無機質な応答が続く。
その声を聞きながら、私は一度だけ振り返った。
無数の光と情報が行き交うブリッジの中央で、クロムは一切の迷いなく指示を飛ばしている。
その様子を頼もしく思いながら、私はクレイに引かれるまま、ブリッジを後にした。




