第7話 きみがいてくれれば、それでいい
昼間のことを本人に聞けないまま、夜はやってきました。
書斎に入り、仕事上の日誌と個人的な日記をつけるのが一日の最後の作業でした。いつもなら手短に終わるそれが、今日に限ってはなかなか手に付きません。耳にしたこと、目にしたこと、それらの整理が追いつかず、ペンを持つ手がもたつくのです。
一時間も二時間もそうしていました。結局、書き終えたのは深夜のことです。
消化不良の思いそのままに、自室へと移るために書斎を出ました。暗い廊下を歩いていると、リビングへと繋がる扉が半開きになっているのを見つけます。
隙間から、月明かりと歌声が漏れていました。
異国の民謡でしょうか。美しく静謐なメロディが響きます。わたしを置いて行かないで、と誰かに訴えかけるようなフレーズが、その一部分だけがかろうじて聞き取れました。
歌い手の姿を予見して、そろりとリビングを覗きます。
他でもないご主人、アステリアは長い髪を垂らして、窓辺に腰掛け都会の夜空を見つめていました。曲げた片足に腕を添えて、口元だけを動かしています。声量は僅かなのに、部屋の隅々まで歌声は広がっていました。
息を呑んで見守ります。誰も邪魔できません。物音ひとつでさえも、ぼくは許しません。
やがて、静かになった部屋で、アステリアは口を開きました。
「フタエだな。遅くまでご苦労さま」
羞恥心や、驚きなど微塵もなく、そこにぼくがいて当たり前というような、そんな態度でした。
「聞きたいことがあるんだろう」
アステリアはぽつんと浮かぶ月を見上げます。
「それは……」
嘘はつけませんでした。
「街中でご主人の名前を聞きました。それに、落書きにも」
アステリアは金髪を指に巻きつけて力なく弄んでいます。
「気味が悪いと?」
「なぜですか。偶然とは思えません」
「いつか父に言われたことがある、お前は忌み子だと。だから、そういうことを知った誰かが、おおかた悪い噂でもながしているんだろう」
「お父様はどうしてそんなことを」
ふたつの目がぼくを見ていました。
右目は青く、左目は赤い。光の微妙な加減が、ぼくの目を惑わせます。
「ほんの少しだけ、人よりよく目が見えたから。わたしの故郷では、そういうのはあまり歓迎されなかった」
アステリアはぼくの背後よりもずっと奥にある、暗闇を見ているようでした。
「だから母さんはわたしを連れてこの国にやってきた、いや、帰ってきたんだ。けれども母さんはいなくなってしまって、わたしはフタエと出会った。身の回りで起きることは、全部そういった物語の一部なんだよ」
「ご主人を迫害しようとするものが、今になって悪い噂を流しているということですか」
アステリアは再び、こちらに目を向けました。
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。ただわたしに言えるのはそれだけで、大したことだとも思ってない。人の噂なんてよくあることじゃないか」
「直接危害が加えられるようなことがあれば、ぼくの責任です。早急に手を打つ必要があります」
目を伏せて考えを巡らせます。事態が大きくなる前になんとかしなければなりません。そのためには発信源を洗い、適切な対処を――
「フタエ!」
静かな部屋に、叫びが反響しました。
「ご主人……?」
ぼくが顔を上げると、アステリアは言いました。
「特別なことなんてなにも起きてはいない」
「ですが、実際に確かめました。いつかお話したあの女のこともあります。なんでもないと楽観するべきではないと思います」
「なにかあったと感じたのなら、それはただきみが特別だと思っているだけのことだ」
床に降りてきたアステリアは、手を真横に垂らしてぼくを見上げています。
「別に、誰がなにを言おうと構わない」
「ですが」
「ほんとうのわたしを知ってくれる人がいるなら、わたしはそれでいい」
色の混ざった虹彩が、ぼくを見つめていました。
「本当に、ぼくでいいんですか」
アステリアは、影を日向に変えてしまいそうな微笑みを浮かべました。
「フタエにしか頼めない」
「ほかにもっといい人がいるかも」
「いないさ。わたしにはきみしかいない」
「視野が狭いと思います」
「知ってる。でもいい、わたしは思うままに生きたい」
少女の細い指が、ぼくの腕に触れていました。見るたびに、すぐに折れてしまいそうだと思わされます。
前腕に置かれた手に、手のひらを被せました。
「あなたの素顔をもっと見せてください。約束していただけるのなら、その願い承りましょう」
「難しいことを言う。でも、わかった、考えてみるよ」
「ありがとうございます、ご主人」
はじめてアステリアに頭を下げていました。
問題があるなら解決しなければなりません。
ご主人には、陽の光だって似合うはずなのですから。




