第6話 学校は楽しんでいるだろうか
「うん、色々と勝手なことを言ってすまなかったな。まあ、そうだな、人の趣味嗜好というものは、多様だからな。うん、別に、否定したりなんか、しないぞ。なにを恋愛対象にするかなんて、誰が決めることでもないしな。うん、だから、べつに、いいと思うぞ」
「話が飛躍しすぎです。特殊性癖者でも、ナルシストでもありませんから。ただ、今更制服も似合わないなと思っていただけですよ」
引きつっていたアステリアの顔から、力が抜けます。ほっと息を吐いて、鏡越しにぼくの目を見ました。
「なんだ、明日のことか。普通すぎてつまらないな」
「あなたと違って、ぼくは普通ですからね」
「ロリコンは普通じゃないぞ?」
「そこから離れてください!」
投げ捨てるようにドライヤーを置いて、クシを手に取りました。上から下へとブラッシングしていきます。
「そう気負わずに行ってきなさい。制服姿のきみを見て、誰も笑わないよ」
「それはそうかもしれません。でも、誰も受け入れようとはしないでしょう」
「なんでそう思う?」
「一年という時間はあまりにも長過ぎるものですよ」
「なるほど、留年したことを気にしてるのか」
「みんな、ズレたものを嫌いますからね」
「それを言ったらわたしなんて他とはズレまくってるぞ」
「……そろそろご主人も学校に行きます?」
「馬鹿言え、そんな無意味なことをしてたまるか」
「じゃあぼくも遠慮します、なんて」
アステリアは口を結んで睨むようにぼくを見ました。
「フタエはダメ、無意味じゃないから」
「そうおっしゃられると、思っていましたよ」
髪からクシが離れて、アステリアは立ち上がります。くるりと回ってぼくを見て、「わかってるじゃないか」と指を差しました。
艶々のブロンドをたなびかせて、洗面所から去っていきました。ひとり残されたぼくは、誰にも聞こえないように呟きます。
「もったいない」
自分のほうがよっぽど意味があるのに、そう思いました。
翌日、ぼくは一年ぶりに一年生の教室にいました。自己紹介の時も、授業中も周囲から妙な視線を感じました。話しかけてくれた数人も、堅い敬語で用件が終わればすぐに離れていきました。
黒板を眺めていても、教科書を読んでいても、ペンを動かしていても、感情の波は一定で、ぼくはその場に置かれているだけでした。
昼休みになると教室から逃げて、旧友に挨拶をしにいきました。
呼び出して「久しぶり」と言うと、その彼は数秒間固まっていました。
名前を伝えると、ようやくぼくのことを思い出してくれたようでした。
「ああ、羽二重か。ひさしぶり。やめたかと思ってたよ」
一言二言交わして、彼は教室内へと戻っていきました。他にも知った顔がいましたが、一人もこちらにはやってきませんでした。
一年前は下の名前で呼ばれていたような気がしていたのですが、どうやら勘違いだったようです。
階段を降りて、一年生の教室へと戻りました。
帰り道、馬鹿野郎、とぼくは言いました。それが誰に向けたものだったのか、自分でもよくわかりませんでした。同級生に批判的な感情を向けるなんてことは、なかったのですから。
石を蹴っ飛ばしたり、意味もなく地団駄を踏んだりします。ある生活道路では、十メートル歩くのに五分以上もかけてしまいました。
しかしそんなことをしても、腹の虫は一向に収まりません。
なので、アステリアについて考えることにしました。
最初に想像したのは生足でした。ほっそりしたそれはTシャツから直接伸びているようで、下にはなにも履いてないのではないかとドキリとさせられます。しかし見てみれば床についたお尻はちゃんと布に覆われていて、際どい見せ方がされているだけなのだと気づきました。
悩ましげな表情で指に金髪をくるくる巻き付け『来て』と呟いています。たくさん浮かんだハートマークの中心に顔があり、眼鏡を――そういえばあの方は意外と視力が悪いようです。
こんな妄想ではなくとも、眼鏡っ娘は家に帰れば堪能できます。ソファーに溶けて美術の本を読んでいるときには、たいてい着用しています。
「普段はコンタクトなのでしょうかね、調査せねば」
他にも聞きたいことは色々あります。ご両親のことや、資産のこと、好きなものや嫌いなもの、どうしてぼくを選んだのかも。けれど、教えてくれるとは思えません。
「まったく、対等なようでちっとも対等じゃない」
荒々しい鼻息が出ました。
いつかかわいい格好をさせよう、そう思いました。
そんなふうに色々妄想していると、ふいに周囲が暗くなりました。気づかない内に、高架下のトンネルに入り込んでいるようでした。本来のルートを五十メートルもオーバーしていました。
「しまった。まったくご主人ときたら……他責は罪ですかね」
仕方ないので、引き返すことにしました。
その途中、人とすれ違いました。軽薄な感じの男性二人が、ふざけ合いながら談笑しています。
遠ざかるその声に、ぼくは聞きました。
『――アステリア』
足を止めて、振り返ります。トンネル内に響いた名前は、彼女のもの――
「気のせいでしょうか」
きっとそうに違いありません。
早く帰ろうと、踵を返します。偶然、トンネルの壁面が目に入りました。ラッカースプレーで描かれた落書きがありました。下手な絵に汚い言葉たち。目に刺さる色使いの無秩序で素敵な作品群。日本全国津々浦々どこにでもあるような、価値のない暇つぶしの成果です。
その中のひとつが、目に止まりました。
それは名前。あるはずのない名前。
「アステリア」と書かれていました。
「世に不幸を撒き散らす悪魔」だと、添えられて。




