第5話 心くらい読んでみろ、従者ならば
「はあ、恐縮です」
女がまともだったのは、その一瞬だけでした。カッと目を見開き、空に向かって咆哮します。
「ヴぁああああああああ、音、殺す、崩壊、アステリア、駄目だ駄目だ、だめだああああ」
それからも延々と粘着してきました。なんとか逃げ出そうと試み続け――まさか家に連れて行くわけにはいきません――ようやく撒けたのは、哀れんだお月さまが覗きに来るようなそんな時間帯でした。
昼間の出来事を包み隠さずアステリアに話しました。
初めこそ神妙に話を聞いていましたが、次第に緊張は緩和されていき、最終的には面白がっているようですらありました。
「なんだそんなことか、大袈裟な男だなフタエは──って思ってそうな顔ですね」
ソファーに両手両足を乗せて座っていたアステリアは、前のめりになって言います。
「なんと、心が読めるのか!」
「大当たりですか」
「いいや、大ハズレだ! やっぱり心なんて読めるはずがない!」
「人がそれなりに大事な話をしているときに、ずいぶんと楽しそうじゃありませんか」
「人生に楽が無ければ生きようと思えないからな」
アステリアはそういって笑うばかりで、話をまともには聞こうとしませんでした。
「心配なんてしなくても、そんな女にはなにもできないさ。それより、言われた通りに作ってみた」
アステリアが取り出したのは、A4サイズの用紙でした。
ふたりは一年の間主従契約を結ぶことに同意する、といった内容が記載されていました。丸っこい字の、手書きの文面です。
ふたつある署名欄のうち、ひとつにはすでに署名がなされていました。
「これはこれは、お手を煩わせてしまって」
受け取って内容に不備がないか確認します。性格の悪いことですが、極小サイズの但し書きが無いかも確認してしまいます。とはいえ稚拙もとい簡素な契約書なので、労をかけることもなく終わりました。
「これだけですか?」
「不足か?」
「通常は変造を避けるために二部を……」
「ならフタエが持っていてくれ。それなら心配ない」
「心配してください。裏切られても知りませんよ」
「疑っていては、いつまでも仲良くなれないからな」
まあとびきりの笑顔でアステリアはそんなことを言いました。
「それに、いっそ心の底から信じてみたほうが──」
「楽しい、ですか」
「なんだ、読めるじゃないか」
おかしな人です。警戒して、反骨心などを抱いているのが、馬鹿らしくなってしまいます。
ぼくも署名して、アステリアが大きくあくびをしました。
アステリアに仕えるようになって、二週間が過ぎました。ぼくは明日、高校生に戻ります。無論、長期休学明けなので留年扱いとなり、一年生をやり直さなくてはなりません。
鏡に映る羽二重一美の姿を観察します。フォーマルシャツにグレンチェックのベスト、胸にはクロスタイ、そしてスラックス。馬子にも衣裳とはこのことで、我ながらバッチリ決まっています。
制服を着て授業を受けるよりも、こうしているほうがずっとぼくらしい。そんなふうに思ってしまいます。
「手が止まってるぞ。ご主人様に見とれるなんて、ハレンチだなぁ」
視線を下げると、髪を後ろに垂らしたアステリアが、小悪魔のように笑っていました。
お嬢様の濡れた髪を乾かし整えている、そんなシチュエーションでした。
「いえ、そんなことは。それに、もう少し大きいほうが好みですから」
「なっ……セクハラだぞぉ!」
アステリアは顔を真っ赤にして叫びました。事実AかBかとその程度です。なんのことかはぼくにはわかりません、が。
「身長の話ですよ。どうしてそんなに恥ずかしがっているんです?」
「チビだと馬鹿にするのも同じようなことだ!」
「馬鹿になどしていません。ご主人のような庇護したくなる系の女性が好みだという男性も、世にありふれています。出すぎず伸びすぎず、むしろ手のひらサイズが愛くるしく感じられます。小動物系の魅力は、成熟した大人にはなかなか出せないものです。無垢で純粋で、穢れなき清純さをアピールされたらその手の男性はいちころですよ」
「力説されるとキモいな、ロリコンめ」
「違いますよ。ぼくの話じゃありません。一般論として性の対象が低めの男性について──」
「そんなこと言って、本当はメロメロだったんだろう! あんなにうっとりしておいて誤魔化せないからな!」
自分の頬に触れます。顔が緩んでいた、ということでしょう。まさか、そんなはずがありません。ぼくの目に写っていたのは、自分の姿以外になにもないのですから。
アステリアが美人なのは認めます。目を奪われそうになるのも認めざるを得ません。ですが、こと今回に限っては、間違いなく誤解なのです。
「ですから、誤解ですよ。上の空だったのは謝罪いたします。しかし、ご主人に注目していたわけではないんです」
「じゃあ、なにを見てた」
「ぼく、です」
「は?」
「自分を見ていました」
「えっ……」
アステリアの顔が、みるみるうちに青ざめていきます。凍りついて、呼吸すらも止めているようでした。




