第4話 外に女を作ろうとするな
アステリアとの奇妙な邂逅を果たしてから一日過ぎて明朝のことです。
仕事を本格的に始める前に、入用のものを買い出しに行けと命じられました。家事に必要な道具は大抵備え付けられているので、その多くはぼくの身の回りの品ということになります。アステリアはお金を持たないぼくに金ピカに光るカードを差し出し「好きに使え」と言いました。「限度額はない」らしく、セレブな世界観が垣間見えました。
外に出ようとすると、アステリアが玄関にやってきました。
「フタエ」
神妙な顔をしたアステリアは、こちらを見つめるばかりでなかなか用件を言おうとしませんでした。
「もしかして逃げ出さないか心配してるんです? それとも通報されたくないとか」
「い、いや、そうゆうんじゃ、そうゆうんじゃないんだ」
「不安なら手でも繋いで買い物します?」
「違うっ! 疑ってなんかないぞ、嘘はつかないって、あれは嘘じゃない」
アステリアはぎょっとして身体をこわばらせます。
「……ただ、なかなか言えないこともある。口にする言葉は真実でも、口にできない言葉も多いんだ」
アステリアはわざとらしく咳払いをしました。
「なんだ、その、外は危険だから気をつけてな。まあ、焦らずゆっくり、危なくないように帰ってきなさい」
「はあ、そうですか」
「余計なことに気を……いや、やっぱいい、とにかく、気をつけてな」
「それだけですか?」
「う、うん。時間を取らせて悪かったね」
「いえ、お気になさらず。行ってまいります、ご主人」
アステリアは胸元で手を振りました。
「行ってらっしゃい。怪我のないように」
どことなくぎこちない笑顔を浮かべていました。
まさか出先でその名前を耳にするとは思ってもみませんでした。
一通りの買い物を済ませて、路上を歩いているときのこと。とある大学に隣接する市街地で、その叫び声を聞きました。
「アステリああああぁあぁぁア゙ア゙ア゙ア゙」
狂気を多分に孕んだ、いえ、狂気そのものが真っ昼間の市街に響き渡ります。前方約五十m先で激しくヘッドバンキングをしている女が発信源なのは見るに明らかでした。
「あ゙あ゙あ゙あア゙ステリアァ」
悪い冗談でした。知り合いの名前を連呼する狂人を目撃すれば、いくらぼくでも身動ぎくらいしてしまいます。
「音が音が音が音が、あ、あ、あああ、ゔぁああああ゙あ゙、殺す殺す殺す殺すころずう」
頭を振りまくり、髪の毛を掻きむしる、白昼堂々猛り狂う狂人の姿がそこにはありました。
運の悪いことに、女が暴れているのは帰り道でした。
「……この道を行けばどうなるものか」
案外すんなりと通してくれるかもしれませんが、分の悪そうな賭けです。しかし迂回するにしても、川を渡る必要があり、次の橋までは十分も歩くことになります。
さてどうしたものか、と思案していると、再び女が叫び声を上げました。
「音、音音音音トトト、ミエル見エルミエル、聞こえるキコエルキコエルううううう」
かたかたと機械的に首が動き、血走った両目がぼくをロックオンします。
決めました。迂回しましょう。回れ右します。
「あ、ああああああ゙あ゙アぁ」
ああ、やだな、間違いなく追ってきています。荷物を抱え込んでいるせいで、全力で走ることができません。追いつかれるのも時間の問題ですよこれ。
なので、諦めました。せっかくですし、観察してみましょう。
こちらに迫る変なのは、やはり女性のようです。長い黒髪が目に入って痛そうです。垂れた目、灰色の瞳が嬉々としてぼくを捉えます。服装はパーカーにデニムパンツ。パーツは悪くないし高身長も相まって、普通にしていたらモテそうです。
この普通じゃない人、つまり気の触れた女は目の前で急停止しました。
瞳孔の開ききった目で、ジロジロとぼくを見定めます。
口にするのはやっぱり。
「あぁぁあすてりあああああ」
あえて笑顔で言いました。
「人違いですよ、お姉さん」
「違う違う違う、違わない違わない、違わな――――」
糸の切れた人形みたいに、女は静かになります。すぐにまた騒ぎ出します。
「違うっ、違うっ、違うっ、どこっ、どこっ、どこだああああ」
「さあ、地元じゃないんで、ちょっとよくわからないです」
気の触れた女が、もう一度まじまじとぼくを見つめます。目と目が合ってしまいます。
少しだけクールダウンした様子で、気の触れた女は言いました。
「アステリア……じゃない……?」
「わかってくれましたか」
女は目を瞑って、ぼくの胸元に頭を近づけてきました。
「でもあなだ、素敵な音色がする。オルフェウスの竪琴みたい」




