第38話 ぼくはあなたが好きだ
医師は、命に別状はないがこれから頑張らなくちゃいけない、と伝えてきました。ぼくはただ、そうですか、と頷いていました。
自分のことよりも、アステリアのことが気がかりでした。たまたま病室にいないだけでしょうか、食事にでも行っているのかもしれません。家に戻っているのかもしれません。何日寝ていたのかすら自分ではわかりませんので、それも十分考えられます。
「しばらく安静になさってください。先のことは後々相談しましょう」
「あ、あの……」
「どうされました?」
「あ……いえ、なんでもありません。ありがとうございました」
そうですか、と言って医師は離れていきました。聞いたところで、無駄でしょうから。
あの屋敷に戻れるでしょうか。身寄りのないぼくは、頼る当てがありません。アステリアの元に戻れなければ意味がありません。もし、もし彼女の方から姿を現さなければ、いつ訪問が叶うでしょうか。
数日、数週間、あるいはもっと長いかもしれません。その時までに、記憶は残っているのでしょうか。距離を置いたことでまた失われてしまえば、一体何のためにこんなことをしたのか、永久にわからなくなってしまいます。
シーツを握りしめます。今すぐにでも飛び出して行きたいと思いました。ですが、今のぼくには、そんなことすらも叶いません。
起こしていた身体を倒します。ベッドに仰向けになって、見えない天井をただ見つめていました。
無気力でいると、ほんの僅かな振動を感じ取りました。ベッドの下、床から伝わってくる、見逃して当然な振動を。廊下を歩く無数の人の足音、その中のひとつ。ぼくはそれを聞いていました。
誰かが廊下で挨拶をしています。
ひとりは、先程の医師。
もうひとりは。
「…………!」
それはよく知った声で。
叫ぶよりも前に、起き上がります。ベッドから飛び降りようとすると、点滴が抜けて前腕にチクリとした痛みを感じました。そうすると今度はケーブルが絡まって、思うように身体が動きません。やっとベッドを降りたと思うと、足を滑らせて前のめりに転倒してしまいます。
「お、わわ──つぅ………」
痛みはありましたが、そんなことは無視します。起き上がろうとすると──
「そんなに慌てて、どこに行く──フタエ」
柔らかいものに手を包まれました。床に膝を付けたまま、その人の顔を見上げます。
見えていないはずの目は、目の前の光を見ていました。
「アステリア……様……?」
呆れの混ざる微笑で、アステリアはぼくを見つめていました。
「なにか、悪いものでも見たような顔だなあ」
「見えます……アステリア様が……ご主人がそこに……」
「なんて情けない顔。ベッドもめちゃくちゃだ。よほど説教してもらいたいらしい」
アステリアはやれやれと首を振りました。
それから、その場でしゃがんで、掴んだ手を頬に擦り寄せます。ぼくはされるがままでした。
「苦労をかけてしまったな……わたしがきみを追い詰めてしまった、ごめんなさい」
「いいんです、自分で決めたことですから。それに、一番欲しかったものが、手に入りましたから。それでも、もし申し訳ないと思うのなら」
心の底からの笑みを浮かべます。
「笑顔を見せてください。たくさん、見飽きるまで」
「……うん」
静かに頷いたアステリアは、しばらくの間そうしていました。
「頑張ってみるよ、わたしもいろいろと」
そういってアステリアは、ぼくの大好きな笑顔を見せてくれました。




