エピローグ 生まれてきてよかったと、わたしは思う
五月晴れの空が、高く澄み渡っていました。朝の並木道は、制服を着た生徒で賑わっています。昨日まで降り続いていた雨が止んだこともあり、心なしか皆さん明るい顔をしているような気がします。大急ぎで走り去っていく男子生徒。お茶会でもしているような騒々しい女子生徒のグループ。一人でいるものもいれば、友人との通学を楽しんでいるものもいます。
そして、仲睦まじく手を繋いで歩いているカップル。
「カップルではない!」
隣にいたアステリアが、顔を赤くしながら叫びました。呟きが聞こえていたようです。意図的だったことは内緒です。
「失礼しました。つい浮かれてしまいました」
「まったく世も末だ。こんなものまで着させられて、ああ気持ち悪い。マスゲームでもするつもりか」
そういってアステリアは、自分の着ている制服を摘んで引っ張り上げました。パタパタと上下させて、不満そうにぼくを見上げています。家を出たときからずっとこの調子でした。
ただし言い出しっぺはアステリアです。ぼくは主の意向で、主がご不満に思われる行いをお手伝いしているに過ぎないのです。
「困りましたねえ。ぼくは学校に行かなくちゃいけないし、一人でお家まで帰れますか? そうだ、タクシーを呼べばご主人でも迷子にはなりませんよね」
ちょっと待ってくださいね、と携帯電話を取り出します。アステリアの反応は、だいたい予想通りでした。
「いーらなーい! そもそも帰るとは言ってないぞ! フタエに不自由させないのはわたしの使命だからな」
「でしたら、歩きましょ。もうすぐですよ。それとも、なにか嫌なことでもあるのですか?」
「うっ……うぅ……まぁ、なくもない、というか」
アステリアはキョロキョロと周囲を見回し、寒気を感じたかのように身を捩りました。
「……お、落ち着かないんだ、なんだか見られている気がするし、きみが変な事を言うから、余計に気になってしまう」
アステリアは人混みを歩くことにも、衆目を集めることにも慣れていないようでした。後者に限れば気のせいかもしれませんが、とにかく気にしすぎてしまっているようです。
無理もありません。昼間の市中を出歩くなど、年単位で行っていなかったらしいのですから。
そんなアステリアに新たな一歩を踏み出させたのは、他ならないぼくという存在でした。
退院の日、屋敷へと通じる森の道すがら、アステリアはふと足を止めました。ぼくは暗闇の中でその名前を呼びます。
ふらふらと手を伸ばしてさぐっていると、やわらかいものに包まれます。その瞬間に、ぼくは再び世界の光と色を見ていました。
『わたしがきみの目になるから、きみはわたしを見る目になってくれ。消えてしまわないように、見張っていてほしい。きみがいないと、もうダメみたいだ』
『かしこまりました……ご主人』
そのときぼくらの契約は永遠となりました。
しかし大きな問題が残っていました。実際のところなにも解決してはいないのです。アステリアを狙う何者かは健在で、未だ命を狙われている可能性は大いにありました。
けれども、アステリアは爪などを磨きながら言うのです。
『どうせ忘れてしまってるさ。他の誰とも同じようにな』
憂慮していると、アステリアは悪戯に微笑みました。
『わたしには、わたしにしか見えないものがある。忘れてないだろう』
問題を問題としない態度の答えは、その一言に集約されていました。
そして、ぼくらはこうして肩を並べあっています。いざ実現したとなると不満タラタラなのは幼児性──もといかわいらしいところです。
気づくと綺麗な目が訝しげにぼくを覗いていました。見上げるような形で、長い髪が背中側に垂れていました。
「なんで急に黙る?」
「いえ、なんでもありません。そんなことより、誰も見ていないと思いますよ。気のせいです」
教室に入れば注目を集めること間違いなしですが、今は黙っておきました。
「そ、そうかなぁ? ならいいんだけど……ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
アステリアは、だしぬけにそんなことを言いました。
「構いませんけれど、なんでしょうか」
「が、学校って、どんな場所かな? 実は、今まで黙ってたんだけど、行ったことがなくて。勉強は母さんに教えてもらってたけど……」
「そうですねぇ」
少しだけ考えてみました。
「退屈で、つまらない場所です。陰鬱で、じめじめしてます」
「え、そうなのか。なんか、話に聞いてたのと違うような……」
「過去の話です。今日から楽しくなる予定なんですよ」
「今日から?」
「ええ。ちょうど今日から。行きましょう、遅刻しちゃいますよ」
「おわっ、急に走るなー!」
強引に手を引っ張って、ぼくらは走り出しました。




