第36話 あなたと一緒にいたい
リュックを受け取り改めてお礼を言います。それから、謝罪も付け加えました。
「申し訳ありませんが、少々立て込んでいまして、屋敷に招いておもてなしすることが叶いません。主人の許可を取るのにも難儀する次第でして、積もる話はまた後日とさせていただけませんか?」
「フ、フタエくん、め、召使いさん、みたい」
ああそれは知らなかったか、と墓穴をほったような気分になりました。
「後日改めてお礼させていただきますので、連絡先を伺ってもよろしいでしょうか?」
「べ、別に、気にしなくても、……で、でも、せっかくだし、そうす、る」
こちらの連絡先を伝えずに、光莉さんの番号だけを教えてもらいました。
「ではこれで、失礼します」
頭を下げて立ち去ろうとすると、光莉さんはぼくを引き止めました。
「あ、アステリアとは、仲直り、した?」
「……その予定です」
光莉さんの姿を見た瞬間に、記憶は蘇っていました。屋敷に戻りたい衝動を抑えて、彼女と会話などをしているのは、言うなれば覚悟のための時間でした。次が最後になるかもしれない、と思っていました。だから、恐ろしい所業を、実行に移さなくてはならないのです。
目論見が外れれば、死ぬかもしれません。
「そ、そっか、あの、ね、音が、とってもちっちゃいの、消えそうに、なってる。私が言うのも変だけど、たぶん、ね、心細いと、思うから」
光莉さんは言い淀みます。かつてアステリアは憎悪の対象でした。今でも思う所があるのでしょう。それでも、エールを送るようにぼくの目を見ました。
「助けて……仲直り、して、あげて」
「もちろんです。あの方も、お待ちでしょうから」
「が、頑張って」
「はい。ありがとうございます」
力強く頷きます。背中を押されることで、ほんの僅かに残っていた迷いが、どこかに飛んでいきました。
「そ、それと、ね、もしよかったら、なんだけど……」
「なんでしょうか?」
「フタエくんが、す、好きになった、アステリアと、会ってみたい、なんて、思ったり……する、の」
「はい、是非そうしましょう。絶対に引っ張り出してきます」
きまり悪そうに揺れている手を、半ば強引に握りました。良い提案だ、と心の底から思いました。そうしたいと強く願いました。
会釈しその場を離れます。心を落ち着かせようとしていても、はやる気持ちは足に勢いを与えました。
青空を遮るように、頭上に葉が生い茂っています。色づく木々に夏の訪れを予感します。踏みしめる大地がたとえ偽物だとしても、ここはぼくらの暮らす世界です。新しい季節に喜び、大自然の恵みを享受し、人々は、命は明日へ明日へと進んでいきます。
アステリアを連れ戻します。ただひとり冬に取り残されているあの人を。
たとえなにを失おうとも、必ず日の下へ。
家に戻ったぼくは、一振りの脇差を用意しました。
ベストを脱いで白シャツだけになり、オーク材の床に正座し、膝の上に両手を重ねます。傍らに置いた脇差を一瞥し、静かに両目を閉じました。
闇ばかりが目の前に広がります。色のない、日陰の世界。アステリアと巡り会える唯一の場所。暗闇の彼方から音が響き渡ります。美しく静謐な、悲しい音が。輪郭すらもなくしてしまったその人のお名前をお呼びします。いつものように、なにも変わらず。
「アステリア様は、そちらにいらっしゃいますね」
『…………』
返事はありません。息遣いすらも、もう感じられなくなってしまいました。
「ぼく、ようやく気がつきました。今のままじゃ、あなたの側には立てないんです。見ているものが理解できないから、いないものとして扱ってしまうんです」
『……』
「あなたを感じても、決して定着することはない。現実はぼくに言います。一度消えてしまったものはもう蘇らない、だから諦めろ、と。なにもかもをなかったことにして、その存在も、思い出さえも、ぼくから奪っていく。あげく、目に見えないものは実在しないだなんて、固定観念を押しつけてくるんです」
ふざけるな、誰がそんな運命を決めた。
「だけどぼくは知っています。現実なんてデタラメだって、特別は確かに実在するんだって、あなたは、アステリア・シズ・フリンは、風間アステリアは生きているんだと、知っているんです!」
感情を抑えきれずに、叫びます。自分に言い聞かせるように。
「なのにこの目は、あなたの姿を見せようとしない。どうすれば、どうすればいい、たくさん悩んだ、特別になろうともした、でもそんなことは無理だった、だから、だから、
──決別することに決めたんです」
『……ぁ』
小さな反応がありました。求めてやまなかった触れ合い、存在の証明。なによりも愛おしいあの人の声。最後の勇気をくれたのは、アステリアその人でした。
「そう、特別になれないぼくにはこんな手段しか選べなかったっ!」
脇差を手に取ります。柄に手をかけ、身体の前に構えました。




