第35話 闇に見た光
穏やかな陽光に満ちた部屋にいながら、光を見失いそうになっていました。
まだ完全に忘れてはいませんでした。ふとしたときに、音を聞きます。それはぼくを導いて、姿なきアステリアとの再会を手助けしてくれます。
記憶が蘇る間隔は、次第に長くなりました。最初は半日だったのが、一日になり、二日になり、やがて一週間にもなりました。不安が心を支配しました。時間を追うごとに、光は薄れていきます。春になれば溶けてしまう雪のように、いつか本当にいなくなってしまうのではないかと、恐ろしくなりました。
アステリアを繋ぎ止めるのに必要なのは、闇の中にその存在を捉え続けること、ただその一点でした。どれだけ希薄でも、どれだけ脆弱でも、ぼくがそうしている限りは、消えることはありません。
だから、可能な限り、限界まで目を閉じ続けました。
アステリアは生きています。間違いなく。今でもこの家で生活を続け、食事もすれば、睡眠も取っています。なのにぼくにはその生活の痕跡に気づくことができません。存在しないはずの人間が暮らしているという矛盾を脳は受け止められずに、異なる形に書き換えてしまいます。
いない、と認識することが、アステリアを消去するトリガーになっているのです。
思いを巡らせて、長い時間が経った頃に、ふと考えが口に出ます。アステリアは、おそらく、ぼくの背中側にいました。
「こうしている間にも、どんどんあなたとの距離が離れていくのを感じます。ぼくも、他の人達とたいして変わらない、現実に生きることを望んでいるのでしょう。偽物だとわかっていても、ここがぼくの生まれた世界ですから」
返事はありません。耳を澄ませてようやく、小さな小さな呼吸音が聞こえてきます。
思うことがあります。見る、とは、観測する、とは、目という器官を通してのみ成り立つのでしょうか?
このところ、その思い込みが間違っている気がしてならないのです。むしろ、視覚なんて曖昧なものに頼っているから本質を見落とすのだと、観ることができないのだと、自己批判的に考えています。
「けれど、気持ちは変わりません。あなたのいない世界なんて意味がない」
ひとつ試してみたいことがありました。とても恐ろしい、けれどやってみる価値のありそうなあることを。
必要なのは、勇気だけでした。
次にアステリアを感じたのは、それから二週間後のことでした。
きっかけは、向こうから訪れました。防犯システムに反応がありました。森への侵入者、もとい来訪者は女性でした。見覚えのあるリュックを背負って、びくびく周囲を見回しながら、屋敷に向かって歩いてきていました。
何を隠そう永島田光莉さんその人です。
適当なところで待ち構え、光莉さんに声をかけました。彼女といえども屋敷に近づけるのは本意ではなかったので、森の中で応対させていただきました。
「お久しぶりです。もしかしてぼくをお探しですか?」
「ひっ……あ、ふ、フタエく、ん」
光莉さんは跳ねて驚いていました。表情に元気がなく、怖がっているようですらありました。
「そんなに怯えて、どうしました?」
「い、いえ、あの、ここ、なんだか、怖い音が、する、の。見張られている、みたいな、薄気味、悪い……」
「そんなこともわかるんですか、あなたの聞いている、音で」
森林内にはセンサーやカメラがいくつも設置されています。怖い音があるとすれば、それらに他ならないでしょう。
光莉さんはおずおずと頷きました。
「う、は、はい、そうです」
「そうですか。見えないものを聞く力、あなたなら……いや、むしろあちら側、か」
もしかしたら光莉さんの聞く音とは、アステリアの持つ異能と近い能力が届けているものなのかもしれません。
そう、例えば、時間も空間も超越した音を聞いている、とか。
きっと、その力はぼくの助けになります。しかしながら、光莉さんがアステリアにどのような感情を抱いていたのかを思えば、協力を願うのは憚られます。
それに、もしかしたら同じことが起きてしまうかもしれません。今はまだ光莉さんの力を、おそらく本人も含めて誰も把握していないから平気なだけであり、もしそれが露呈してしまえば、無事ではいられないということも考えられます。
「ど、どうした、の?」
「いえ、なんでもありません。それより、届けてくれたんですね」
「あ、う、はい、ずっと、探してたんだけど、なかなか見つけられなくて……連絡先、知らない、し」
「わざわざお越しいただきありがとうございます。ですが、あまり音には頼りすぎないほうがいいですよ」
光莉さんは慌てた様子で頭を下げました。
「ご、ごめんなさい……べ、べつに、ストーカー、とか、じゃなくて、ただ、届けよう、って……もう、しません、から、許して、ください」
ペコペコと何度も頭を下げます。
「ああ、いえ、頭を上げてください、別に怒っているわけではありませんよ。ただ、ああ、ええと、これも誤解しないでくださいね。純粋な善意によるあなたへの忠告のようなものです。あまり、気にしないでください」
「そ、そか、なら、よかった、けど、えへへ」
にこりと笑うと、光莉さんも控えめな笑顔を浮かべました。




