第34話 そんなのは違う、絶対に違う
『あの事件も、避けようのない死も、なにが起きているのかは、わたしにもわからない。だけどね、なにが起こるかはわかっていたんだ。最初から最後まで』
「最後だなんて、言わないでください。死んでなんかいません、ここにいらっしゃるじゃないですか」
『きっとこれは呪いなんだ。神さまは、人間の世界に混ざる異物を許してくれなかった。自分でも、自分が希薄になっていくのを感じる。世の理から外れたアステリア・フリンは、もはや死んでいるのさ』
「あなたを救うと約束しました! 誰が忘れようとも、ぼくだけは絶対に忘れたりなんかしません。だから、どれだけ悲観されようとも、アステリア様はまだ生きています」
救う救うといくら口にしても、その方法は見えてきません。現実離れした異能を突きつけられ、かしこい対処法を咄嗟に思いつけるほど聡明ではありません。
それでも、ぼくは。
『きみと過ごした日々は宝物だ。生の経験は記憶に勝るのだと、教えてもらった。だからね、いいんだよ、それで十分だ。思いがけぬ喜びをたくさんもらったから。心置きなく死ねたんだ』
「違う……違いますよ、そんなもので十分なはずがない。まだやりたいことがたくさんあるでしょう、まだ行きたい場所がたくさんあるでしょうっ! 満足して消えるだなんて、そんなの信じない!」
『ねえフタエ、もう話すのは疲れたよ。それよりも、静かな時間を過ごしたい。こうしてもう一度だけでも触れ合うことができた。ぬくもりを感じていたいんだ。永遠にきみの中から消えてしまう、その時まで』
「そんなのは違うって言ってるでしょうっ!」
折れるわけにはいきませんでした。主がなにをおっしゃろうとも絶対に、絶対に。
『もう時間は戻らないんだ。最初から決まっていたことだ、気に病む必要は──』
「アステリア!」
強く、強く、抱きしめました。言葉で通じないなら、身体でわからせます。
あなたはここにいて、目の前にはぼくがいるのだと伝えます。
手触りの良い髪の毛と、血の通った背中。うなじで感じる熱っぽい吐息。華奢で貧相な体躯も、恥ずかしそうな呟きも、全部全部本物です。
『フタエ……』
「いるじゃないですか! ここにいるじゃないですか! こんなにも熱い、こんなにも感じられる。どうしてこれが死人ですか!」
『お願いだから、離してくれ』
「離しませんよ、絶対に離しませんよ。なんと言われようとも、絶対に!」
優しく、アステリアの手がぼくの胸に触れました。
『そうじゃない。わたしの顔を見てくれないか』
「えっ……」
『わたしがちゃんとここにいると、証明してもらいたいんだ。そうしてくれたら、生きているって実感できるから』
「そ、それは……」
もし、なにもなかったら。
なにも見えなかったら。
『嫌?』
「そ、そんなことは決して。お望みならば、いつものように、拝見させていただきます」
腕を緩めて、両手を二の腕に回します。少し距離を取って、何回か深く呼吸をしました。
大丈夫だと自分に言い聞かせて、意を決して両目を開きました。
そこには
書斎を出たのはちょうど日付が変わる頃でした。うーんと伸びをして、廊下を歩きます。
二年目の初日は、特に変わったこともない普通の一日でした。良く言えば平和、悪く言えば退屈、そんな代わり映えのしない日常風景です。日誌に書くことがなさすぎて、虚脱感すらも覚えました。規定の文字数を埋めたいという性癖を持つぼくは、かえって書斎に長居することになります。遅くなったのは、そんな理由でした。
眠気を我慢して、リビングに入ります。一通り部屋を確認してから、窓の施錠確認に移りました。
「施錠よし、と」
遠慮なくあくびをしました。目を瞑ると、光は消えて、暗闇の中に立っていました。
音を聞きました。忘れてならないと誓った、あの音を。
「アステリア様っ!」
ふっとテレビが点いて、気味の悪いテストトーンが反響します。いえ、最初から電源は入っていたのかもしれません。誰かがそれを見ていたのに、今の今まで気がつかなかった、考えられます。そういうことが起きてしまいます。
『元よりきみの人生にわたしなど存在していなかった。戻るだけだ、なにも悲しいことなんてない』
ソファーにその人の気配を見つけました。そう、声と気配だけを感じます。
「違う……そんなの絶対に認めない……」
『親や主人といった束縛から逃れて、きみはようやく自分の人生を歩めるんだ。素晴らしいことだ、幸福だよ、これほど嬉しいことはない』
穏やかな、とても優しげな声でした。
「ちっとも嬉しくない! ぼくじゃない、幸福にならなくちゃいけないのはあなただ! アステリアという人間の物語は、幸福じゃなきゃダメなんですよ!」
『いいんだよ、わたしは。どんな命もやがて終りを迎える。結局のところ、長いか短いかの違いでしかない。憐れまないで。楽しいことだって、いくらかはあったから』
「どうしてそんなことを言うんですか、どうして諦めようとするんですか。可能性なんていくらでもありますよ、現にこうやって──」
とんっと胸を押されました。体勢を崩し、たたらを踏みます。思いがけぬ、突然の出来事でした。閉じていた目は、咄嗟に開いてしまいます。
『……きみがとても辛そうにしているから』
見えるのはテレビから発せられる薄明かりだけでした。その瞬間、大事に思っていたなにかは、吸い込まれるように消えていきました。




