第32話 近いのに遠すぎます
心地の良い重さが、左肩にかかります。耳が、頬が、二の腕にほのかな体温を伝えます。
アステリアの腕とぼくの腕が絡みつきます。大事そうに抱えられて、手は組むようにして強く握られています。恋人どうしがそうするみたいに寄り添います。
長い、とても長い沈黙の時間がありました。核心には触れず、心地よさに浸っていました。
けれど、そんなことではもう、僕らは一緒にいられないのだと思います。
繊細な手を、握り直しました。
「なにがあったのか、話してくれませんか。そのために、一緒に戦うために、戻ってきました」
『こんなものは……一時の幻だよ。無駄に足掻くよりも、こうしていたい。フタエの中から、本当にいなくなってしまうまで』
腕の圧迫感が強くなります。汗ばむ手のひらが滑ります。生々しい実在感から、全身でアステリアの存在を感じ取ります。
しかし、その姿を目にすること叶いません。
「いなくなったりなんてしませんよ。主人の顔を忘れるのは、生涯に一度だって多すぎます」
『……もう主人ではないと言った』
「そんなことはありません。ちゃんと契約書にも書いてあります。──雇用期間は契約締結日から1年とする。ただし、双方の合意を得られない場合はこの限りではない。──こんなふうに」
これにはぼくら二人の署名が記されています。シンプルな文書であり、一年間の雇用契約を結ぶ、と平易な言葉で記されているのみです。
そしてそれには、ぼくの記憶が正しければ、今、口にしたような但し書きが添えられています。最初から。
「ぼくの同意なしに契約は解除されないことになっています。アステリア──アステリア様には、契約書に則り、主従関係を継続していただかなくてはなりません」
『書き加えたな、きみともあろうものが……だが、そんなものはたかが紙っぺら一枚だ、人間として死んだわたしになんの効力を発揮する』
「契約はまだ続いています。あなたを救う義務があって、あなたを忘れてはならない理由があります。アステリア様にはたかが紙っぺらでも、ぼくにとってはそうではありません」
握る手にぎゅっと力を入れます。
「人生は今日だけで終わるわけではありません。明日も明後日も、役目を終えるまで、お側に仕えさせていただきます」
『きみにはもう役目なんてない』
「役目ならあります」
『この期に及んで、こんなわたしになにをしてくれる』
「アステリア様を幸せにします」
寄り添う身体が小さく揺れました。聞こえてくるのは、無理にひり出したような声でした。
『……なんて、青臭い。フタエは、そんなことを、言うやつじゃなかった。も、もっとシニカルで、リアリストで、夢想家を軽蔑していたはずだ……!!』
「それは誤解だとお伝えしました。ペシミストより、情熱に生きる青二才のほうが、ずっとずっと素敵だと思います。――あなたを救ってみせます。絶対に、ひとりぼっちになんてさせません」
『ばか……ばかばかばか、ばかぁ、ばかめが、できもしないことを、簡単に、口にするんじゃない、見損なったぞ、ほんとうにばかだよ……』
アステリアは心ゆくまでぼくを罵倒し、帳が降りたように静かになりました。荒い息遣いと、鼻を啜る音が、途切れがちに聞こえました。
落ち着くのを待って、もう一度同じ質問をしました。
「なにが起きているのか、話してください」
アステリアは、ようやく答えてくれました。
『……わたしたち人間にとって、もっとも幸福なこととはなんだろうか』
「それは、人の数だけあると思います。一般化するのは難しいです」
『――産まれてこないことだ』
冷たい声が、暗闇に反響しました。




