第31話 約束を守らせてください
書き終えたら、すぐさま封筒にしまいます。ペンを返す時間も惜しく、ポケットへと突っ込み、今度こそぼくらの家に向かって走り出しました。
「光莉さん!」
走りながら振り向いて、大きく手を振りました。
「えっ……?」
「ありがとうございました! 今度デートしましょう!」
勢い任せにそんなことを言って、それからはただひたすらに走り続けました。
アステリアのことを考え続けました。記憶はまだ混沌としています。その姿ははっきりとは思い出せません。どんな顔で微笑んでくれたのか、どんな声でぼくの名前を呼んでくれていたのか、
だから戻ります。
だから走ります。
もう一度、アステリアと出会うために。
息が上がるのも無視して走り続け、あの場所へと帰ってきました。閉ざされた門をこじあけ、ずかずかと我が物顔で屋敷に上がり込みます。
カーテンの閉まった暗いリビングで呼びかけます。何百、何千回と、そうしてきたのと同じように。
「ご主人! いるんですね、そこにいるんですね!」
返事はありませんでした。ぼくの目にはなにも映りません。愛用のソファーにも、ダイニングテーブルにも気配は感じられません。
「かくれんぼはもうやめにしましょう。ぼくはあなたに会いたい」
廊下に出て、他の部屋を探します。書斎、客間、トイレにバスルーム、しかしそのどれにも見つけられません。次に向かったのはアステリアの私室でした。
「入りますよ、入りますからね」
ノブを握って一瞬だけためらい、しかし意を決して踏み込みます。
そこはかとない少女趣味を感じさせる部屋です。レースのカーテンが静かに揺れています。棚に置かれた三体の熊の人形。上品な柄の絨毯。小さなテーブルと、天蓋付きのベッド。それと壁にかけられた一枚の絵画。鮮やかな色彩で、どこかの海岸が描かれています。
しかしその部屋にもアステリアの姿はなく、気配も感じ取ることができませんでした。いくら呼ぼうとも、虚しく反響するばかりでした。
階段を降り、今度は使用人控室へとやってきました。ここにはあの絵が残っています。いつか見たアステリアが鎮座しています。キャンバス上に記憶は刻まれています。
「ご主人……そこにいらしたんですね……あなたはずっと……ずっと……」
慈しむような手付きで絵にかかる布に触れます。肩を撫で、首筋に指を這わせ、頬を擦ります。
「羽二重一美は……あなたのもとに……」
一歩離れて冷静になり、絵から布を取っ払います。そこには確かにぼやけも滲みもないアステリアの姿が描かれていました。ぼくの見た、アステリアの姿が。
――こんなの、ただの絵じゃないか。
「……違う」
そう呟いていました。
これはアステリアではないと感じました。目というフィルター越しに見た、創作物でしかなかったのです。思い出はここに眠っていても、本物はどこにもいません。
充足感を与えてくれます。でも、いちばん大事なものがありません。
未来が欲しい。
アステリアとの未来が。
ひとときの甘い夢から抜け出すと、透明な歌声がぼくを呼びました。それはいつか聞いた、異国の民謡でした。
「歌……? どこから……ご主人ですか!?」
頭を振り回して探しますが、やはり姿はありません。部屋を飛び出して、ドタバタと家中駆け回りますが、出処は特定できません。必死になって探せば探すほどに、歌は遠ざかっていきました。
よたよたとリビングに入り、途方に暮れます。
薄暗いところにひとりで立っていると、心が折れてしまいそうになります。
それが、どうした。
「これぐらい……あなたに比べれば……」
数ヶ月もの間、同居人に無視され、もしかしたら永遠の孤独が待ち受けるかもしれない、自らの死とまで予言されていた、ちっぽけな少女に比べれば、なぜ嘆くことなどできましょうか。
「聞かせてください、あなたの声を」
音に集中します。聞こえてくるその歌は、幻かもしれません。けれど、ただひとつの手がかりです。光莉さんのように、個々人が持つ音を聞き分けることができればあるいは。
深く深呼吸をします。目を閉じ、心を落ち着かせます。精神を研ぎ澄まし、全神経で振動を感知し、耳を澄まします。
意識に溶けて、水面を打つ波紋のようにそれは伝わってきました。
真っ白な空間に、ふたつの音が混ざり合っています。
ひとつは、悲痛な歌詞を口ずさむ明るい歌声。
もうひとつは、すすり泣く声。
目を閉じたまま、音のする方へと向かいました。リビングを出て、廊下を渡り、玄関へとやってきます。
すすり泣く声が、より一層大きくなりました。
はじめて、数ヶ月ぶりに、その存在を感じました。
「そこに、いらっしゃいますね。フタエは、ただいま戻りました」
返事はありません。けれど、微かな吐息が伝わってきました。
上り框に腰を下ろし、土間に足を投げ出します。肩口にほのかな体温を感じました。泣き声と共鳴するように、小刻みに震えているのがわかりました。
「初めてお会いしたときのことを思い出します。あのときもぼくを待っていてくれたのですね、ご主人、いいえ──アステリア様」
震える声が、暗闇に響きました。
『様は……余計だ……わたしはもう、きみの主人ではない』
「確かに下僕失格ですね。主のことを忘れる召使いがどこにいますか。本当に、申し訳ありませんでした」
『どうして……どうして戻ってきた……こんなの、想定にはないっ……』
「忘れないでくれ、と、仰せつかっていましたから」
泣き声も歌声も止んで、本物の息遣いだけが残りました。




