第30話 もう一度、あなたに会いたい
また長椅子へと戻ります。隣には光莉さんが座っています。軽装で、大学に向かう途中に気が変わったといった、そのような姿でした。
「わ、すごいクマ、音、も、やっぱり、寂しそう……」
光莉さんはぼくの顔を見て、驚いたように言いました。鏡は見ていませんが、目のクマというのは、自分でもなんとなくわかりました。こう、ズシンと、頭も目の下も重い感じがするのです。
「まさか、音を頼りにここまで来た、なんて言い出しますか」
光莉さんはこくんと頷きました。
「あさ、とっても早くに目が覚めて、ふたつ、音を聞いたの。久しぶりだった、けど、すぐに、わかって、寂しそうで、泣いてて……だから、きちゃった」
「ふたつ……ふたつとは?」
光莉さんは怪訝そうな表情をしました。
「もちろん、あなたの、フタエくんの、……大事な人」
「ですから、その大事な人とはいったい、なんのことです。ぼくは、ほら、一人ですよ」
「ア、うぅ、アス……」
一瞬苦しそうにして、ゆっくりと息を吐き出して光莉さんは続けました。
「だ、だって、アス、アステリ、ア、アステリア、は、きみにとってだいじな、人、でしょ? 私、だって、それくらい、わかる」
「……アステリア」
初めて聞く単語であるはずなのに、とてつもなく懐かしい響きのように感じられました。
体温が上昇するのを感じました。血流が活性化し、表皮がざわめきます。居ても立っても居られない、と、そんな焦燥感に襲われます。今すぐに走り出したい、それを手にしたい、思っても記憶には白いモヤがかかっています。
アステリア、それはなんだ。アステリア、それは人か。アステリア、それは──。
「その人は、ぼくと関係がありますね」
見つめると、光莉さんは身体を引くような動きをしました。額に汗を浮かべて、やや目を見開きます。
「大切な人だって……たぶん……私は、そうだと、ばかり」
「それはぼくが言ったんですね。アステリアとは大切な人の名前だと言っていたんですね」
「ちょ、直接じゃないけど、きっと、そうだって、思って。そ、そう、家族、だって、嬉しそうに、言ってた」
「家族……家族ですか……そんなことを……」
真っ暗闇の宇宙に、ぼんやりと小さな光が灯ります。なにもない場所をあたためてくれる、心の光が。
消えそうで、儚くて、でも確かにそこにあります。ずっと前から、いつまでも。
「忘れ、ちゃったの?」
「忘れた……? ぼくが……? なにを忘れた……なにを……?」
一番星ではありません。五等星かも六等星かもしれません。
でも、だけど、決して消えてはいません。
「アステリア……アステリアは大切な人で……ぼくの家族……」
ひっそりと、確かに、そこに輝き続けています。
「光莉さん……ひとつ聞いてもいいですか」
「あ、は、はい、どうぞ」
「あなたはアステリアを殺そうとしていた、そうですね」
光莉さんの呼吸が一瞬止まります。小さくうなずいて、か細い声で言いました。
「は、はい、そう、です。で、でも、も、もう、そんなことは、おもって、ないよ、約束、したから」
灰色の瞳を見つめます。虹彩に濁った赤色が滲んでいるように見えました。それはおそらく錯覚で、実体はどうあれぼくの目に映るのは光莉さんではなく、あの方の面影。記憶を投影していました。目の前の空間に、その姿を見ていました。
そう、アステリアはこんな目をしていました。
その瞬間に全ては繋がります。
なにに怒りを抱いていたのか。
なにを愛しいと思っていたのか。
なにを、忘れてしまっていたのか。
「……そうか、そうだった、あの方と、ずっと。こんなのおかしい、こんなの変だ、狂っているのはぼくか、それとも……」
「フタエ、くん……?」
「ええい、そんなことはどうだっていい!」
「ひえっ」
ぼくは知っています。その星の名前を。
アステリア――ぼくのご主人さま。
「ごめんなさい、行かなくちゃいけないところができました。今すぐ」
飛び跳ねるように立ち上がって、その勢いのままに駆け出します。
駅舎を出たあたりで、珍しく光莉さんが大きな声を出しました。
「あ、え、あの、荷物っ!」
「預かっていてください!」
「そん、な、これも、いいの」
そういって手を振る光莉さんはあの封筒を掴んでいました。
「あ、あー、それはいります!」
踵を返して、それを受け取りに戻りました。
つい先程まで、大切だと思いながらも、その封筒の中身を失念していました。ですが、今ならわかります。はっきりとわかります。
その中には契約書が入っています。あの方の、アステリアの手書きの契約書が。
受け取ると、遮二無二中身を取り出します。契約書を広げて、手近な壁に押し付けました。
「光莉さん! ペンを!」
「あっ、え、ちょ、ちょっと待って」
光莉さんは肩にかけていたトートバッグを漁り、ペンケースを取り出しました。
「は、はい、どうぞ」
「ありがとうございます!」
それを奪い取るように借り受け、契約書にある一文を書き加えました。殴り書きでした。誰が見てもあとから書き加えられたとわかる条文でした。構いませんでした。




